弐佰伍拾肆
一日の政務を終え、籠宮の湯殿で軽く汗を流した朱夏は、夏の宮へと渡った。
近頃大陸から渡ってきて宮中でも流行り始めた、ゆったりとした袍を身に纏っている。帝の色である紫紺の絹で仕立てられ、春らしく桜色の飾り紐を腰に結んでいた。
夏の宮の入口で訪いを告げ、沓を履き替えた朱夏は真っ直ぐに最奥を目指す。
扉の前で莉羅が頭を下げて朱夏を出迎えた。
「煌は変わりなく過ごしているか」
扉を開けながら莉羅が静かに答える。
「はい。ご機嫌麗しく、健やかにお過ごしです」
莉羅の言葉に頷き、朱夏は室内へと足を踏み入れた。
長椅子の背に凭れ、宵闇の庭を眺めていた煌姫がはっとして居住まいを正す。春に入っているとはいえ、夜半は冷え込むため、温かな膝掛けを掛けていた。
「朱夏さま、ようこそおいでくださいました」
立ち上がりながら、歓迎の言葉を口にする煌姫の表情は晴れない。舎利が双子の親王を産んだことはすでに朱夏の口から伝えてあったが、その夜は特に動揺した様子を見せなかった。
執務と奥宮への渡りで数日訪れなかった間に、何かあったのであろうかと朱夏は不安になる。
煌姫の手を取り、長椅子へと再び座らせてやった朱夏は、己もその隣に腰を下ろした。
「体調は悪くないか?」
「はい。奥宮へ移る支度を、莉羅が少しずつ整えてくれております」
「うむ。四日後の成人の儀の支度も、進んでいるか?」
扉を閉じて茶を淹れていた莉羅に、朱夏は尋ねた。盆に茶器を乗せた莉羅がゆっくり歩いてくる。
「はい。お衣装も、櫻花楼から本日届きましてございます」
「そうか。煌の寝所に置いてあるのか?」
「左様でございます。お方さまのお色を模した、とても華々しいお衣装でございますわ」
卓に乗せられた茶器を手に取り、朱夏は一口含んで息を吐いた。同じように茶器を手にした煌姫を見やる。
「其方は衣装が気に入ったか?」
朱夏に尋ねられ、煌姫が目を伏せて頷いた。
「ええ。とても美しいお衣装でした」
「式典と宴が終われば、翌日には奥宮へ移る。あちらでの其方の部屋はすでに整えさせてあるから、何も案じることはない」
「はい……」
口を噤んだ煌姫に首を傾げ、朱夏は頬に手を当ててこちらを向かせた。
「どうした?何か心配事があるのなら、私に聞かせてほしい」
「……」
「煌?」
再度問いかけると、煌姫が視線をうろうろと彷徨わせた後で、恐る恐る口を開いた。
「第二室……さま、から、お文をいただきました」
その言葉に朱夏は僅かに目を見開いた。此度奥宮へ移ってくる煌姫へ、挨拶の文を送りたいと舎利から許可を求められたのは昨夜のことであった。床上げもまだであるのに、早速認めて夏の宮へと届けた舎利の、礼儀を尽くした素早さに驚いたのである。
「そうか。文には何と?」
内心の動揺を悟られないように、朱夏は平静な声を出す。
「その……これまで慣れ親しんだ夏の宮を出ることに、ご不安はないか、とか。わたくしが移ってしばらくは、幼子がうるさくお気を煩わせるかもしれないことを申し訳なく思う、とか」
「……」
「丁寧に、わたくしを気遣う文面で。お手跡もとても流麗で……」
朱夏から視線を逸らし、煌姫が膝の上の手に目を落とした。
「それから、わたくしが正室として奥宮に構えてくださるのが嬉しい、と。第二室さまはわたくしの後ろに下がった位置で、朱夏さまとわたくしのことをお支えする、と」
「……そうか」
ほおっと、煌姫が息を吐き出した。薄桃色の瞳に、じんわりと涙が浮かんでいた。
「不快であったか?」
朱夏の問いに、煌姫がぶんぶんと首を振る。
「莉羅は、そのようなお文など無視してしまえと言うの。でも、わたくしは……」
鋭く莉羅を睨み、反論しようと口を開きかけた莉羅を手で制して、朱夏は煌姫の手をそっと握った。
「朱夏さまが、わたくしのいない間に愛されたのが、あの方でよかったと。そう、思いました」
「そうか」
「でも、やっぱり会うのが怖い」
「……」
吐息のように零された言葉に、朱夏は顔を顰めてしまわないように気をつけた。奥宮で、これから朱夏の正室として数多の視線に晒される煌姫が、こうして話すことでその覚悟を決められるのなら聞いてやりたかった。
「きっと、ご立派な方なのだと思うわ。御子さまを三人もお産みになって、これまでずっと奥宮を管理してこられて」
「……」
「わたくしなど、きっと敵わない。御子も授かれない、夏の宮に籠ったままのわたくしでは、奥宮の侍女たちに意地悪されてしまうかもしれない」
握る煌姫の手を、朱夏はそっと己の頬に当てた。釣られて、煌姫の視線が朱夏に向けられる。
「あまり、自分を貶めるものではない」
「……」
「子は授かりものだ。いくら欲しいと願っても、思い通りに腹に宿るものではない」
静かに告げる朱夏に、煌姫が肩を震わせた。ぽろり、と涙が頬に零れる。
「其方は私の正室だ。第二室が文で伝えてきたように、私の隣に立つのは其方なのだ。もっと、胸を張っていよ」
「……」
「其方の奥宮への移動に合わせて、新たに侍女長を選出する。輝山家から頼もしい女人が来てくれるであろう。その者の話をよく聞き、正室としての心構えも教えてもらうとよい」
煌姫の髪を撫で、朱夏はゆっくりその体を抱き寄せた。宥めるように背を撫でる。
「第二室に会うのが怖ければ、しばらく顔を合わせる機会は作らぬように、あちらにも申し伝えておこう」
「……そんな、我儘。わたくしは……」
弱々しく首を振る煌姫の顎に指をかけ、朱夏は上を向けさせた。
「其方の心が穏やかに過ごせるように、様々に手配するのが夫としての私の務めだ。案ずることはない」
煌姫の額に口づけを落とし、朱夏はじっとその顔を覗き込む。
潤んだ瞳で朱夏を真っ直ぐに見上げた煌姫が、しばらく考えてこくり、と頷いた。




