弐佰伍拾弐
春明が摘んだ花を大切そうに胸に抱え、朱夏とともに産室へと戻ってきた。
横たわる舎利の隣に赤子用の寝台が運ばれ、二人の親王が寝かせられている。
「……寝台も、もう一つ用意せねばならぬな」
「ははうえー!おはにゃ、ちゅんめぇ。ちゅ……ちゅむ、しちゃー!」
朱夏の呟きに被せるように元気な声が響き渡り、舎利の口元に微笑みが浮かんだ。産台に駆け寄ろうとする春明を抱き上げ、朱夏が口元に人差し指を立てる。
「春明。静かにせねば、母上の体に障る」
「いやっ。ははうえ、ちゅんめぇ、ちゅき!」
苦笑を浮かべ朱夏は舎利に近づいた。産台に横たわった舎利の腰を、和沙がゆっくりとさすっている。
「……どうした?」
眉を寄せた朱夏に、和沙が心配そうに答える。
「お二人もお産みあそばしましたもの。少しお腰に痛みがあるようでございます」
「薬師は?」
「痛みを和らげる薬湯を用意していただき、お方さまにお飲みいただきましたわ。今は隣室に控えていただいております」
「そうか。舎利、辛ければ眠ってもよいぞ」
舎利が答える前に、朱夏の腕の中で春明が暴れだした。
「ははうえー!ちゅんめぇ、らっこぉ!」
「こら、春明。母上はお加減がよくないのだ。困らせるな」
「やぁーよーっ!」
春明の大声に驚いたのか、寝台に寝かされていた赤子がふにゃふにゃと唇を動かした。
次の瞬間、産室中に春明よりさらに大きな泣き声が響き渡る。一人が火がついたように泣きだせば、もう一人も釣られて大泣きを始めた。
朱夏の腕の中で、びくり、と春明の体が跳ねる。
「そら、春明。其方が大声を出したから、弟たちが驚いてしまったようだぞ」
「あ、あー……やあーっ」
幼子の泣き声は伝染する。赤子が二人も大泣きしたままでは、安心するはずの父の腕の中でも春明は不安になったようだ。
群青の瞳に涙を溜め始めた春明を抱いたまま、朱夏は赤子の寝台に近づいた。乳母が慌てて赤子を抱き上げ、泣き止ませようとあやしている。
乳母の前に立ち、春明に弟の顔が見えるように、朱夏は少し腕を傾けた。
「春明。其方の弟たちだぞ。花を贈るのではないのか?」
「あぅー……おはにゃ?」
浪嶺に手渡された手巾で春明の鼻水を拭いてやった朱夏は、小さな指先に視線を向けた。
「そうだ。先ほど、父と摘んできたろう?生まれたばかりの弟たちに、其方が初めての贈り物をしてやるのだ。父もまだだというのに、羨ましいことだな」
「おはにゃ……おちょちょ!」
己の手の中に大切に握っていた菫の花に視線を落とし、春明が朱夏と乳母に抱かれた赤子たちを交互に見る。
「そら、弟たちの枕元に置いてやるといい」
ようやく泣き止んだ二人の赤子が、寝台に戻された。その枕辺に立ち、春明の手が届くようにと朱夏は体を近づけてやる。
「うむ。弟たちは泣き止んだようだな。立派な親王だ」
「やぁーっ!ちゅんめぇも!」
父が赤子を褒めたのが気に入らなかったのか、春明がぐずぐずと鼻を鳴らしながら袖で目元を拭った。きりっ、と顔を上げる。
「其方も立派だな」
「んっ!ちゅんめぇ、あにうえ!」
「そうだな。では、兄上となったのだから、いつまでも自分のことを春明と呼んでいてはいけないな」
「あぅ?」
春明の手に手を添えてやり、二人の赤子の枕元に菫の花を置かせてやった。
「おお。弟たちも喜んだようだぞ」
「いやいや、ない?」
「もう泣いていないであろう?」
赤子の顔を覗き込み、春明は満足したように何度も頭を振った。
舎利の側まで戻り、朱夏はようやく春明の体を床に下ろしてやった。
「ありがとう存じます、今上さま」
「うん?」
首を傾げた朱夏に、舎利が微笑んで手を伸ばす。その手をそっと握り、労るように手の甲をさすってやった。
「春明のお相手を、お任せしてしまって」
「構わぬ。春明も、新たに生まれた子らも、皆等しく私の息子だ」
「ははうえっ!ちゅんめぇ、ここよっ!」
床からでは舎利の顔が見えず、春明が不満げに飛び跳ねている。先ほど話していたことを思い出し、朱夏は春明の前にしゃがみ込んだ。
「春明。其方も立派な兄上となったのだ。自分のことは私、と呼ばなくてはな」
「わちゃ、わちゃち?」
「私、だ」
きょとんと目を見開いた春明に、朱夏は根気強く続ける。二人の親王の披露目の折には、春明の三歳の祝いもともに行われる予定だ。一の親王として、しっかり成長している姿を重臣たちに見せたい打算も朱夏にはあった。
「わ、た、し、だ。春明」
「んぅー……ちゅんめぇ、わちゃ……わたち?」
短い指で己の顔を指差し、難しく眉を寄せている春明に、朱夏はさらに教える。
「男子は、己のことを私と呼ぶのだ」
「わたち……ちゅんめぇ、ちあう?」
「春明というのは、其方の名だ。父の名が朱夏であるのと同じようにな」
「うぅー……?」
混乱した春明が泣きそうな顔になって和沙を見上げた。舎利に掛布を掛けた和沙が、産台を回り込んできていたのである。
「まあまあ、親王さまにはまだ難しいのではございませんか?」
常と同じおおらかな笑顔に安心したのか、春明が和沙の裳をぎゅっと握った。ちらり、と朱夏に視線を寄越す。
「難しくとも、そろそろ言葉遣いは教えてやらねば」
「そう、でございますわねぇ」
市井に暮らす民の子ではないのだ。帝の親王として、どこに出しても恥じることのない佇まいにしなくてはならなかった。
「来月の三歳の祝いまでには、せめて己の呼び名は何とかさせたい」
きっぱりと言い切った朱夏に、その場にいる者は誰も反論しなかった。春明は奥宮で甘やかされている、との風評を立てられないように、必要な教育だと誰もがわかっていたためだ。




