弐佰肆拾玖
執務室へと戻り、朱夏は長椅子にだらしなく寝そべった。
すかさず輝山の大臣から小言が飛んでくる。
「今上さま、お行儀が悪い」
「叔父上が、右の大臣を引き受けてくれたぞ」
小言を無視した朱夏の言葉に、輝山の大臣が片眉を上げた。向かいの汐之に視線を向ける。
「おめでとうございます、今上さま」
静かな汐之の声に、朱夏は身を起こした。
「春になれば、其方は左の大臣だな」
「身の引き締まる思いです」
汐之の言葉に頷き、朱夏は長椅子から立ち上がって執務机へ向かった。
「大臣職の引き継ぎにかかる時間はどのくらいだ?」
朱夏に問われ、輝山の大臣が首を傾げた。
「我らはほとんど、ここでこうしてともに政にあたっておりますからな。それほど難しいことはございませんよ。春が見え始めた頃からでも構いませぬ」
「父上がご在位の頃は、其方はあまりここへ顔を出してはいなかったな?」
親王時代、時折訪れたこの執務室には、大抵父が一人で座っていたものである。朱夏が帝になってから、輝山の大臣は常に執務室に構えていた。
「先帝さまは何事もお一人でお決めになり、我ら廷臣には決したことだけを朝議の場でお伝えになるのが常でございましたからな」
「それでは、其方らとこうして協議しながら物事を進める朕は、帝として落第であろうか?」
「そのようなことはございませぬ。どの帝も、それぞれご性質がございます。先帝さまはお一人で押し進める強い御方。今上さまはきちんと重臣たちの言葉に耳を傾ける、理性的な御方ということです」
「……」
「個性と言い換えてもよろしい」
決裁の署名のために筆を手に取りながら、朱夏は考える。時の帝の性格によって、政のあり様も、国の歩み方も変わる。振り回されるのは、いつも無辜の民だ。
「朕が独裁的に振る舞っては、民が、引いては国が傷つく」
「ですから。民のことを考え、寄り添おうとなさる今上さまは、ご立派な帝であられますよ」
祖父の評にこそばゆさを覚え、朱夏は軽く咳払いして手元に視線を落とした。
静かな時が流れる。
朱夏と両大臣が書状をめくり、筆を走らせる音だけが響く。ふと顔を上げると、窓の外に夕焼けの赤が見え始めていた。
筆を置き、朱夏は両腕を頭の上に上げて体を伸ばす。
「今上さま?お疲れでございますか」
汐之の気遣う言葉に首を振り、朱夏はふうと息を吐いた。
「次に夏煌丸が戻る時には、親雪が帰国するな。どんな土産話を持ち帰るか、楽しみである」
朱夏の任命した三名の外交官は、交互に大陸へ渡るという体制になっていた。
一人は四季の国に残り、一人が唱洪の国の外交官屋敷に留まる。そしてもう一人が、その屋敷を拠点に周辺の国々へと赴くのだ。船は半年おきに大港へ戻ってくるが、外交官たちは一度旅立てば帰国できるのは順調にいっても一年後である。
現在大陸へと渡っているのは、先年の夏に出立した夏煌丸に乗っていった善有と親雪であった。今年の夏に、親雪が帰国し築岳と交代することになっている。
「亜伊夜の国まで足を伸ばしたはずですから、また珍しい品や面白い話を持ち帰るでしょうな」
「その話は、ぜひとも紘通にも聞かせてやっていただきたいものです」
輝山の大臣の言葉に朱夏も頷く。これからは、外交の話や政の話は、紘通と交わすことになっていくのだ。
机の文具を片づけて、朱夏は立ち上がった。
「今宵は、どちらで休まれますか?」
「籠宮へ戻る」
家族との新年の祝いは、夏の宮と奥宮それぞれで過ごした朱夏である。
「よろしいのですか?」
「夏の宮は月の障りが来ているようで、しばらく控えてほしいと莉羅から知らせがあった」
「左様でございますか」
帰国してすぐの夏頃は、煌姫の体調が安定せず、月の障りが来ないこともあった。だが、朱夏と夜を過ごすようになり、心も安定したのかこのところは決まった頃合いに月の障りが来るようになっていた。
その度に、御子を授かれなかったと肩を落とす煌姫の姿を、莉羅は朱夏に見せたくないようである。
「では奥宮へ渡られては?」
「そちらも、第二室がな」
「どうなさいました?」
首を傾げる汐之に、朱夏は眉を下げてみせた。
「春明が春の宮に移れば、朕や第二室と顔を合わせる機会は減る。今の内に、朕と離れる時間に慣れさせたい、と」
「それはまた、養育熱心なことですな」
「まだよいと思うのだが……朕が顔を見せれば、春明が甘えてしまうと言われてはな」
朱夏と舎利の間に挟まるように座り、上機嫌に笑っていた我が子の顔が思い出される。
「第二室さまの仰せも正しいことではございます。和沙や乳母は春の宮へついて行くでしょうが、それでも父君や母君と離れる暮らしを、いきなりさせるのはお可哀想かと」
「和沙は、ついて行くだろうか」
舎利のために、大港から呼び寄せた和沙である。
「春明親王さまを、心から慈しんでいるでしょう?引き離すのは気の毒ですよ」
「う、む……」
「春までには、お決めなさいませ」
汐之の言葉に頭を掻き、朱夏は執務室を後にした。春の足音は、すぐそこまで近づいていた――。




