弐佰肆拾陸
奥宮の舎利の私室で朝を迎えた朱夏は、和やかな朝餉の時間を過ごしていた。
春になって第二子が誕生すれば、一月の披露目を待って春明とともに春の宮へと移す支度が始まる。
こうして親子水入らずで過ごせる時間は、それほど残っていなかった。
「ははえ。こえ、ちゅんめぇ、いや」
朝餉の膳の一角を指し、春明が眉間に皺を寄せて頭を振っている。指し示されたのは、新年に食される魚の煮物であった。
「あら。春明はお魚が好きでしょう?嫌なの?」
朱夏の杯に水を注ぎながら、舎利が首を傾げた。
「やぁよ!」
幼子用の椅子に腰掛け、和沙の給仕を受けていた春明が手にした匙を振り回す。がちゃん、と音を立てて膳の上で皿がひっくり返った。
「……春明」
朱夏の低い声に、春明の肩が跳ねた。
「行儀が悪いな、春明」
「やーあーっ!こえ、ちゅんめぇ、やっ」
ぶんぶんと腕を振る春明の匙の先が、和沙の手の甲に当たった。先の尖ったものではなくとも、力いっぱい振り回された勢いそのままにぶつけられ、和沙が一瞬だけ痛みに顔を顰める。
「まあまあ、親王さま。今日はご機嫌が悪うございますか?」
笑顔を浮かべた和沙が、春明の手から匙を受け取った。膳の上でぶち撒けられた中身を、乳母から手渡された手巾で丁寧に拭いていく。
「しっかり召し上がりませんと。お父上さまのように大きくなれませんよ」
「やっ」
「まあまあ、困りましたわねえ」
膳の上を綺麗に整え、和沙が再び匙を春明に持たせようとする。だが、頭を大きく振って春明が椅子から飛び降りた。受け止めようと腕を広げた和沙が、体勢を崩してふらつく。
「……っ」
「お母さま、危ないっ」
咄嗟に支えた浪嶺が、和沙が倒れなかったことに安堵の息を吐く。その間に、春明が長椅子の舎利の足元へと駆け寄った。
「ははえ!らっこ!」
「まあ、春明。母はお父上と朝餉の最中ですよ。其方も、きちんとお席で朝餉を食べなくては」
「やっ!」
「どうしたのかしら。今朝は聞き分けがないのね?」
首を傾げながら春明を抱き上げようとした舎利の手を、朱夏がそっと制した。
「今上さま?」
「春明。何がそれほど嫌なのだ?」
「うぅー……」
「朝から我儘を言って、母を困らせるものではない。和沙にも、怪我をさせるところであったろう?」
朱夏の言葉で春明が和沙に視線を向けた。浪嶺に支えられ、春明が飛び降りたことで汚れてしまった椅子を拭いている。
舎利に視線を戻した春明が、唸りながら床に座り込んだ。苛立ちを表すように、両手で床を叩いている。
「……わたくしのせい、かしら」
ぽつりと零された一言に、朱夏が舎利に視線を移す。
「舎利?」
「近頃、わたくしも腹が重たくて、春明を抱いてあやしてやることができませんから。和沙や浪嶺も、まずはわたくしの体調を考えてくれるから、春明は寂しい思いをしていたのかもしれませんわ」
「それは……しかし、このように癇癪を起こすのを許しては、親王として……」
難しい表情を浮かべる朱夏の腕に、舎利が宥めるように手を置いた。
「それと、今上さまがこうして朝をともに過ごしてくださるから。甘えているのかもしれません」
「甘えて?」
「ああ、責めているわけではありませんのよ?けれど、こうしてこのお部屋で朝を迎えてくださるのは、少し久しぶりでしょう?お父上に甘えて、我儘を言っているのかもしれませんわ」
「う、む……」
床に座り込んだ春明に、和沙が近寄ってきた。両腕を広げ、危なげなく抱え上げる。
「あー!かじゅちゃ!やぁーよっ」
「まあまあ、親王さま。和沙がお抱き申し上げるのは、お嫌でございますか?和沙が泣いてしまいますわよ」
「やっ。かじゅちゃ、めぇめぇ、らめっ」
「ええ、ええ。和沙は親王さまが笑ってくだされば、泣いたり致しませんわ。さあ、お食事を続けましょうね」
背を叩きながら、和沙が春明を再び座らせようとする。その一瞬、朱夏に向けられた春明の瞳に不安そうな色が見て取れた。
舎利の言う通りかもしれない。常に側にいてやれるわけではない朱夏へ、精一杯構ってもらおうとしているのかもしれなかった。
溜息を堪え、朱夏は立ち上がって春明の椅子へ近寄った。
「……今上さま?」
春明に食事を再開させようとしていた和沙が、一歩後ろへ下がった。床に膝をつき、朱夏は春明の顔を覗き込む。
瞳に溜まった涙を、ぐいっと袖口で拭っている。
「春明。泣かぬは立派であった。だが、男子たる者、女人を困らせるものではない」
「うぅー……」
春明の頭を撫で、和沙がしていたように匙をその手に握らせてやる。
「今日は、父も仕事を休みにしよう」
「うぇ?」
「こうして、其方や母の元で一日、ゆっくりと過ごそう。それで、どうだ?」
朱夏の提案に、舎利が心配そうに声を掛けた。
「よろしいの?」
「ああ。どうせ今朝は、昨夜の宴の酒が残り、皆も政どころではなかろう。新年休みはどこかで取らねばならぬのだ」
「……いっちょ?ちちえ、ははえと。ちゅんめぇも、いっちょ?」
じっとこちらを見上げる瞳に期待の色が浮かんだのを見て、朱夏は大きく頷いた。
「そうだ。今日はずっと一緒だ」
「うれち!ははえ、うれちね!」
先ほどまでの癇癪が嘘のように、にこにこと笑顔を浮かべる春明は、その後行儀よく朝餉を口に運んだのであった。




