弐佰肆拾伍
新たな年が明け、華々しく新年の宴が行われた宵。
朱夏は宴席を抜け、覚束ない足取りで奥宮へと渡った。後ろから烏を筆頭に護衛たちがつき従う。
昨夜は夏の宮に渡り煌姫と新年を寿いだ朱夏であったため、今宵は奥宮の舎利を訪ねると知らせを出してあった。ふらつきながら歩く朱夏に、ぴたりと後ろについた烏が声を掛ける。
「今上さま。今宵は、籠宮でお休みになられては?」
「……今宵行くと、文を出してある」
「ですが……」
新年を祝う宴席に、煌姫も舎利も姿を見せなかったため、朱夏に挨拶に訪れた重臣たちが代わりとばかりに酒を注いできたのである。麗しい細君の姿をお隠しになるなら、我らの酒を飲まれませ、と。
無礼講の宴であるため強く断ることもできず、朱夏は常よりも酒を過ごしたのであった。
「……酒臭いであろうか」
「まあ、多少は」
言葉を濁した烏に朱夏は苦笑を返した。
「和沙に湯を浴びてこいと、追い出されるであろうか」
「第二室さまがお許しになるのならば、よろしいのではありませんか」
「う、む……」
大きく腹の膨れてきた舎利の体に障ると、春明にも嫌がられると、きっと和沙は腰に手を当てて言い放つことだろう。
「……先に籠宮で湯を使う」
「酒が回っておいでなら、湯殿は危のうございます」
「顔を洗い、口をゆすぐ」
烏が後ろに従う小姓の一人に目配せし、籠宮へと走らせた。手水の盥を用意させるのだ。
「少しでも、酒の匂いを消してから行かねば。和沙に叱られる」
「今上さまを叱りつけられるのは、あの方くらいのものですな」
「それと輝山の大臣だな」
上機嫌に烏と会話しながら、朱夏は籠宮の私室へと足を進めた。
顔を洗い装束を改めた朱夏が、奥宮の黒門の前で訪いを告げた。重々しく音を響かせて開かれた黒門を、奥宮の武官を引き連れてくぐる。頭を下げる烏の目の前で、黒門がぴたりと閉ざされた。
舎利の私室の扉前で、護衛の武官が拝礼して扉を開けた。ふわりと香る馴染んだ香に、朱夏の口角が上がる。
夕餉を済ませた頃合いで、私室の内では舎利が長椅子にゆったりと座っていた。冷えないように、膝掛けや肩掛けで体を温めている。
春明は窓に張りつき、外の景色を眺めていた。夕刻から降り出した雪が、月明かりを受けて地に積もるさまをじっと眺めているようだ。
「春明。あまり窓辺に寄ってはまた風邪を引くぞ」
声を掛けてきた朱夏に気づき、春明が窓から離れて駆け寄ってくる。
「ちちえ。ゆち。きえいよ」
足元で両腕を広げる春明を難なく抱き上げ、朱夏はその柔らかい頬に己の頬を寄せた。
「やぁーっ。くちゃい」
「まあ、春明。父上にそのようなことを言ってはなりませんよ」
「いーやー!」
腕の中で両手足をぱたぱたと動かす春明に苦笑し、朱夏はそのまま長椅子へと歩み寄った。
「今上さま、ようこそお越しくださいました。明けましておめでとう存じます。新たな年の始まりを、お慶び申し上げます」
「ああ、そのままでよい。座っていよ」
「春明。父上さまに新年のご挨拶をしなくては」
まだ暴れている春明を床に下ろしてやり、朱夏は舎利の隣に並んで腰を下ろした。
「新年、明けましておめでとう、舎利。体調はどうだ?」
「はい。こうして温かく着込んで過ごしておりますので、何ともありませんわ」
舎利の頬に口づけを贈り、朱夏は床からじっと見上げてくる息子に目を向けた。
「春明。新年明けましておめでとう。父に挨拶はしてくれぬのか?」
「あちぇ……あちぇまち、て……?おめちょ?」
「ふむ」
春明を再び抱え上げ、舎利との間にそっと座らせる。
「よいか。父の後について言うのだ。明けまして、おめでとう」
「あ、あちぇ……あけま、ちて?」
「おめでとう」
「おめれちょ!」
両手を合わせてぱちぱちと鳴らし、満足げな笑顔を見せる春明の頭を朱夏は撫でてやった。
その様子を微笑んで見守り、舎利がくすくすと声を上げる。
「まあ。春明は、今上さまから教わった方が言葉を早く覚えそうですわね」
「そうなのか?」
浪嶺が淹れた薬草茶に口をつけ、朱夏は首を傾げる。
「春が来れば、春明も三つになるな」
「ええ。この御子も、その頃にはわたくしの腹から出てきてくれるでしょう」
愛おしげに腹を撫で、舎利が朱夏を見つめた。
「ご正室さまも、奥宮へ移って来られるのでしょう?」
「……うん」
煌姫の成人を待ち、夏の宮から奥宮の正室の部屋へと移ることが、年の暮れの朝議の場で決定した。それに合わせて、輝山の大臣も引退する。
目まぐるしく様々なことが変わる状況で、舎利が不安に思うことがないよう心を砕かねばならなかった。
「わたくしは、大丈夫ですわ」
朱夏の頬を白い手がそっと撫でた。はっとして、朱夏は視線を向ける。
「舎利?」
「そんなに、思い悩まれることはありませんわ。入内を決めた時から、わかっていたことですもの。いずれ、ご正室さまが貴方さまのお隣に並び立たれる。覚悟して、わたくしはここに来ましたのよ」
「舎利……」
頬を撫でる舎利の手に手を重ね、朱夏は眉根を寄せた。
「胸の内を隠すなと仰せになったでしょう?ですから、ご正室さまの元へお通いの間は苦しいと、正直に申し上げますわ。ですけど、ずっとわたくしの元にいてほしいなどと、我儘は申しませんわ」
穏やかに微笑む舎利が、無理をしていないか朱夏はじっとその瞳を覗き込んだ。
「朱夏さまがずっと側にいてくださったなら、嬉しいと思います。でも、それはご正室さまとの時間を奪うということ。わたくしは、辛くとも、春明に胸を張って母と言える女になりたいと」
「……舎利」
「ですからね。そんなにご自身をお責めになるようなお顔を、見せないでくださいませな」
春明の頭越しに、朱夏は舎利の体を抱き寄せる。腕の下で、不満げな幼い声が響いた。




