弐佰肆拾肆
さわさわと、秋風に芒が揺られる音が朱夏の耳に届いた。
目の前で静かに涙を溢れさせる煌姫を、抱き寄せようと手を上げかけて動きを止める。慰めの言葉など、今の煌姫の心には届かない気がした。
妙葵が吹き込んだ毒が、これほど煌姫を蝕んでいたことに、何故これまで気づけなかったのか。事実無根でないところが、質が悪いと言える。これも、妙葵の朱夏への復讐なのだろうか。
ふ、と息を吐くと俯いた煌姫の肩が跳ねた。
「煌」
短く名を呼ぶと、びくんと身を竦ませた煌姫が顔を上げかけ、思い詰めたように再び下を向いた。その肩に、朱夏はそっと手を置いた。小刻みな震えが、手の平から伝わってくる。
「私は、春香を愛していたわけではない」
感情を込めずにそう告げれば、煌姫がはっと顔を上げた。涙で濡れた瞳が、驚愕に見開かれている。
「朱夏、さま……?」
「綺麗な其方に聞かせるべき話ではない。だが、このまま黙っているのも卑怯だからな」
ぱちぱちと瞬く度に、煌姫の瞳からは涙が零れる。それをそっと懐から取り出した手布で拭い、朱夏は唇を舐めて言葉を紡いだ。
「醜いのは、私の方だ」
「朱夏さま?」
「其方も亜伊夜の国で見たのであろう?男が、浅ましく女人に溺れるさまを」
「……っ」
唇を震わせながら頬を朱に染めた煌姫は、亜伊夜の国での光景を思い出したことだろう。それを咎める資格は己にはない。ぎゅっと眉間に皺を寄せ朱夏は言葉を続けた。
「春香は、私の体を慰めるために、私の側に侍っていただけのことだ」
「……っ」
「帝一族の男子である私が、体の熱を鎮めるために市井へ忍んで行くわけにもいかなかったからな」
煌姫が両手で口を覆う。ずっと側で仕えていた春香を、朱夏が貶めたように聞こえたことだろう。
「春香は、私や父上に命じられて侍っていただけだ。其方が醜いと言ったその気持ちを、春香に向ける必要などないのだ」
本当は、心から春香に慰められていた。ただ肌を合わせただけの相手ではない。それでも、朱夏のその想いを煌姫に打ち明けるわけにはいかなかった。
ただのお役目だったのだと。春香は義務で朱夏の側にいたのだと。煌姫にそう言い聞かせようとする己こそが、浅ましく卑怯で醜かった。
「其方が亜伊夜の国で無事だったことは、春香に感謝している。王の後宮で其方を守ってくれたのだろう?」
「……はい」
「だが、それだけだ。私が春香に向ける感情は。其方を守った感謝と、遠い異国の地で幸せになってくれるといいという、それだけの気持ちだ」
「……」
煌姫の視線がうろうろと彷徨う。朱夏を見つめ、己の手に視線を落とし、戸惑ったように卓へと瞳が向けられた。
「其方が私を厭わしく思うのならば、そう言ってくれ。他の女に触れた私は、穢らわしいか?」
「っ、ちが……違います、そんな……ずるい」
朱夏に視線を戻した煌姫が、ぶんぶんと頭を振った。
「うん。私はずるい男なんだ」
「わた……わたくし……罰が当たったの」
「うん?」
煌姫の呟きに首を傾げ、朱夏はその頬に手を当てて己の方を向けさせた。
「煌?」
「はる、春香が、戻らないことを喜んだりしたからっ。だから……朱夏さまには、第二室さまが……御子さまも」
またも両手で顔を覆った煌姫を、朱夏は我慢できずに抱き寄せた。きつく腕の中に閉じ込める。
「しゅ、朱夏さまっ」
「人として、女人として当然の感情だ。私だって、嫉妬を感じることはある。其方だけではない」
「……朱夏さまが、嫉妬……?」
腕の中で身動ぐ煌姫の背を撫で、朱夏はその耳元に唇を寄せた。
「其方の口から他の男の名など出れば、私は嫉妬でおかしくなるだろう」
「そんな、そんなことっ」
「だから、そんなに己を責めることはない。春香に嫉妬したくらいで、罰など当たらない」
「……っ」
朱夏の言葉に大きく目を見開いた煌姫は、唇を薄く開けたままじっと朱夏を見上げてきた。その唇に、朱夏は己の唇を押し当てる。
こうして口を塞いで、煌姫の気持ちを誤魔化そうとする己が、酷く無様に感じられた。
唇を離した朱夏を、腕の中から煌姫が頬を染めて見つめている。
「私の愛する正室は、其方だけだ。私の愛は、信じられぬか?」
「……っ」
「それならば、其方が信じてくれるまで、何度でも愛を囁こう。初夜の寝所で、そう告げたはずだな?」
そう言ってやれば、煌姫の顔が真っ赤に染まる。たとえ卑怯と言われようとも、煌姫の心を落ち着けて、奥宮へ移った時に舎利と衝突させないようにしてやりたかった。
打算的な考えが浮かぶ己への嫌悪を、煌姫を抱きしめることで隠す。
「煌、愛している」
「……っ、朱夏、さま」
腕の中で泣きながら瞳を閉じた煌姫に、朱夏はもう一度口づけしたのだった。




