弐佰肆拾参
朱夏と煌姫の初夜から三日が明け、寿餅が民に振る舞われたその日。
執務を休んだ朱夏は夏の宮で昼過ぎまで過ごしていた。
夜毎朱夏に愛され、煌姫は幸せそうに微笑んでいるが、時折ふっと遠くを見つめる時があった。その表情が気にかかり、朱夏は本宮や奥宮へ行けずにいた。
夏の宮の庭にある東屋へ煌姫を誘い、朱夏は莉羅に薬草茶を淹れさせた。
煌姫と並んで座り、ゆっくりと秋の花々を眺める。
膝の上できちんと揃えられた煌姫の手に、朱夏はそっと手を重ねた。
「……朱夏さま?」
花を見ていた煌姫の視線が朱夏に向く。じっと、その薄桃色を覗き込んだ。
「どうなさいましたの?」
「いずれ、其方には奥宮へ移ってもらいたいと思っている」
「……っ」
瞳を丸くした煌姫が息を呑んだ。震える唇が、何かを言いかけて引き結ばれる。
「夏の宮にいるままでは、正室としての立場にも警護にも不安がある」
「不安……?」
「其方と私が不仲だと、妙な噂など立てられても困る」
ひゅっと煌姫の喉が鳴った。少しずつ顔色を悪くする煌姫を宥めるように、朱夏は柔らかな髪を撫でる。
「だが、其方が厭うなら。重臣たちは私が説き伏せてみせよう」
「……」
「奥宮には第二室や親王がいる。其方が会いたくないならば、その方法を考えねば」
朱夏の手の下で、煌姫の指先が冷たくなっていく。その震えが直に伝わり、朱夏は時期尚早であったかと悔やむ。だが、避けては通れない話題でもあった。
「輝山の大臣が、其方の成人に合わせて引退を表明した」
「……引退?」
「其方も会ったことが幾度かあるが、覚えているだろうか。私の祖父上なのだが」
春日の葬儀や朱夏との成婚の儀で、煌姫と輝山の大臣は顔を合わせたことがあった。だが、いずれも煌姫が幼い頃の話である。さらにその後、長く国元を離れた煌姫が、覚えていなくとも仕方がないと朱夏は思っていた。
眉を寄せ、昔を思い起こすような表情の煌姫がゆっくり頷いた。
「お顔は、朧気ですけれど……お会いしたのは、覚えておりますわ」
「それはよかった。祖父上も喜ぶ」
「どうして、引退なんて……」
薬草茶を一口含み、朱夏は茶器を卓に戻した。色とりどりの菓子も並べられているが、朱夏も煌姫も手をつけてはいない。ただ、秋風に頬を撫でさせるのに任せるだけであった。
「主な理由は年のせいだが。其方が戻ったことも大きい」
「わたくし……?」
大きく目を見開いた煌姫が、朱夏に向かって首を傾げてみせた。
「私の元に其方が戻り、その治世は安泰と判断したのだろう。こうして、ともに過ごせるようにもなったからな」
「朱夏、さま……」
「だが、其方にはまだ、胸の内に抱えた何かがあるようだ。それを、私には聞かせてくれぬのか?」
亜伊夜の国での出来事を、煌姫は頑なに口にしようとはしなかった。急かすつもりは朱夏にはない。だが、何も言わずに一人で耐えているような煌姫の顔を、ずっと見続けているのは辛かった。
「……春香と、ずっとともにいたのか?」
小さく呟かれた言葉に、煌姫が弾かれたように顔を上げた。薄桃色の瞳に涙が溜まり、ゆらゆらと揺れる。
「やはり、話したくないことだろうか」
唇を震わせ、微笑もうとして失敗したような顔で、煌姫が首を横に振った。薄青の衣の袖を、きゅっと握りしめる。
「其方はきっと恐ろしい思いをしたのだろう。だから、思い出させるような話はしたくないのだが」
「……」
「それでも、其方が無事であったのがもし、春香が守ったためだというのならば。私は春香に感謝せねばならぬだろう?」
煌姫の手の甲を撫で、朱夏は己の口元にその指先を引き寄せた。そっと口づける。
朱に染まった煌姫の頬を撫で、朱夏はじっと煌姫の言葉を待った。
「……は、春香、は……」
「うん」
「春香もっ。朱夏さまに、愛されておいででしたの……?」
ぽろり、と煌姫の瞳から零れた涙を親指で拭い、朱夏は困ったように眉を下げた。
「それは、誰かから聞いた話か?」
「…………妙葵」
思わぬ名に朱夏の眉間に皺が寄ったが、すぐに表情を取り繕った。煌姫の頬に手を当て、そっと己の方を向かせる。
「他に、何を聞いた?」
静かな問いかけに、煌姫はゆるゆると頭を振り続ける。
「春香が……春香は、朱夏さまを愛していて。でも……あ、亜伊夜の国、で……深く寵愛されて、御子を授かって……」
外交官たちの報告でわかってはいたが、実際に目にした煌姫の口から語られた内容に朱夏の胸が僅かに軋んだ。
「亜伊夜の国の王に、春香は愛されていたか?」
こくり、と煌姫が頷いた。その拍子に、再び涙が零れる。
「春香の出産まで、其方が付き添ったと聞いている。それで、帰国が遅れたと」
「……春香は、あちらのお国で側室になったのです。でも、周りに知っている人が誰もいないから、不安そうで」
「言葉も違うのだろう?」
再び首肯し、煌姫がほおっと息を吐き出した。これまで胸の内に秘めていた感情を、ようやく表に出せたように。
「流されてばかりのこれまでだったけれど、これからは自分の足で立つのだと。そう言っておりました」
「……そうか」
「望んで授かった御子ではないけれど、あちらの奥宮の人たちが甲斐甲斐しくお世話をしていて。言葉も習うのだと、御子のために懸命に生きるのだと、わたくしにそう聞かせてくれました」
朱夏の脳裏に、柔らかく微笑む春香の姿が浮かんできた。遠い海の向こうで、国王に愛されて幸福な道を歩んでくれるといいと願わずにいられない。
「わ、わたくし……ずるいのです」
「うん?」
「春香が、辛い思いをしたのに。わたくしを……守ってくれていたのにっ」
ぎゅっと目を閉じ、煌姫は震える唇を開いた。
「それなのにっ。わたくしは……喜んだのですっ」
「……喜んだ?」
「しゅ、朱夏さまの愛を受けた春香がっ、もう戻らないことを、よ、喜んで……わたくしは、醜い……っ」
両手で顔を覆って嗚咽を漏らす煌姫を、朱夏は呆然と見つめた。




