弐佰肆拾弐
三日の間夏の宮へ渡るという内容を、簡潔に感情を込めずに書いた文への返事が、奥宮から朱夏の執務室へと届けられた。舎利への文には、季節の花を一輪と、近頃好んで食べているという果実を添えてあった。
執務机で封を解くと、ふわりと舎利の香が漂った。紙に香を薫きしめてあるらしい。
左右から視線を感じるが、朱夏は構わず書面に目を走らせた。ふう、と息を吐き出す。
「第二室さまからの文ですかな」
書を畳む朱夏に汐之が声を掛けた。元通りに封をした文を、抽斗を開けて文箱にしまった朱夏は頷く。
「しばらく奥宮へ渡れぬと伝えた。その返事だな」
「第二室さまは何と?」
気遣わしげな表情になった汐之に、朱夏は苦笑を返す。
「今上さま?」
「奥宮のことは気にせず、煌を大切に、と」
溜息を吐いた朱夏に汐之が首を傾げた。
「何をお気に病まれておいでです?」
執務机から立ち上がり、朱夏は長椅子へと移動した。烏が薬草茶を淹れて差し出す。
一口含んで息を吐いた朱夏は、大臣席に座ったままの汐之に視線を向けた。
「物わかりがよすぎる」
その言葉に汐之が目を丸くする。向かいで輝山の大臣も困ったように眉を下げた。
「もっと責めてくれてもよいのに。自分には和沙や浪嶺がついているから大丈夫だと。ようやく戻った正室とともに過ごしてやれなどと……第二室には、嫉妬などという感情はないのであろうか」
悩ましげに呟いた朱夏に、汐之が呆れたような視線を向ける。立ち上がって、朱夏の向かい側に回り込んで腰を下ろした。
「烏どの。私にも茶を頼む。うんと熱くしてくれ」
「かしこまりました」
朱夏に向かい合い、汐之が口を開いた。
「よろしいですかな、今上さま」
「うん?」
「それは、贅沢な悩みというものでございますよ」
「えっ?」
首を傾げた朱夏に、汐之がしかつめらしく眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「妬心を抱かぬことなど、無理でございますよ」
「湊刃の大臣?」
顔の横で人差し指を立てた汐之を、朱夏はじっと見つめる。烏が淹れた薬草茶の香りが室内に漂った。
卓に置かれた茶器から薬草茶を一息に飲み干し、ふうと息を吐いた汐之が口を開く。
「たとえご寵愛深い第二室さまといえど、今上さまがご正室さまと過ごされる夜には、お辛い思いもなさるでしょう」
「……うむ」
「ですが、それを表に出さないだけの慎みを、きちんとお持ちであられる。入内を決めた瞬間から、お覚悟なさっていたことです」
「……」
一度は側室になることを断った舎利である。それでも朱夏や輝山の大臣の懇願に、首を縦に振ってくれた。
正室不在の奥宮を采配し、朱夏の子を無事身籠り、世の人からは順調で幸福な道を歩んでいるように見えることだろう。
「それでも、やはり一人の女人でございます。貴方さまのお手が、指先が、他の女に触れることなど耐えがたいことでしょう」
「……」
「それを飲み込んで、ご正室さまを第一にと言える側室というものは、得難い相手でございますよ。先帝のご側室さまたちなど、寵を争って醜い女人同士の諍いをしょっちゅう起こしていたというではありませんか」
父の時代の奥宮を思い出す。朱夏自身が足を踏み入れたことはほとんどなかったが、朝議の場で重臣たちが噂していたのはよく耳にした。
第六室の元へばかり帝が通うのは規律の乱れだ。
帝は第二室から順に、均等に側室たちの元へ通うべきだ。
いずれかの側室ばかりを寵愛するのは、奥宮の空気を壊すため控えるべきである。
そういったことを、先の第二室は声高に主張していたらしい。
「室同士が争わないように、第二室さまがお心を砕いておいでだというのに。焼きもちを妬いてほしいというのは、贅沢というものです」
「……そう、だな」
「次にお渡りになった折に、うんと甘やかして差し上げればよい。奥宮でお過ごしの際には、夏の宮でのことなど考えさせず、ただ第二室さまや春明親王さまだけを見つめて差し上げればよろしいのです」
実感の込もった汐之の言葉に、朱夏は思わずまじまじと向かいを見つめた。
烏に淹れてもらった薬草茶のお代わりを、ごくごくと飲み干しているところであった。
「さて。それはそうと、今上さま。私は輝山の大臣の今後について、お話をお聞きしたいのですが」
話題を変えた汐之に内心で感謝しつつ、朱夏は輝山の大臣に視線を移した。
「そうだな。朕も今朝方聞いたばかりで、まだ心の整理がついておらぬが」
二人の視線を受けた輝山の大臣が、眉を下げて笑いながら口を開いた。
「私めも、随分年を取りましたからなあ。今上さまは無事ご正室さまを奪還なされ、後継の懸念もなく。重臣たちのことも上手く掌握しておいでです」
「朕は、まだまだ……」
「以前より考えてはおりました。ご正室さまのご成人は、よい機会なのです。楽隠居の身となり、時折孫や曾孫の様子を文で聞きながら、悠々と過ごしたいと考えます」
輝山の大臣の言葉に、汐之がくすりと笑いを漏らした。
「老獪な輝山の大臣が、家督を譲られたくらいで楽隠居の身になれるとは思いませんが」
「言うではないか。だが、こうして日々本宮へ通ってくるのも、体に堪える日があってな」
「それほど……いや、元気に見えるが」
頼もしい祖父を引き止めたい朱夏ではあったが、無理をさせたくはない。
「まだ半年ほどは時がございます。今上さまの次の御子さまがご誕生なさる折には、また盛大に祝わねばなりませんからな。ただ、引き継ぎなどは始めたいと思っております」
確固たる決意を覗かせる輝山の大臣に、それ以上思い留まらせるための言葉を朱夏は持たなかった。




