弐佰参拾玖
籠宮の湯殿で身を清め、ゆったりとした衣に身を包んだ朱夏が夏の宮へと渡る。
烏が灯籠で照らす明かりで日の沈んだ夜道を歩き、月明かりに浮かぶ建物が見えてきた。
宮の入口で来訪を告げ、朱夏は静けさに包まれた廊下を進む。
煌姫のための私室の扉には薄桃色の絹地が幕として掛けられ、扉の横に莉羅が控えていた。
「ようこそおいでくださいました、今上帝さま」
深く拝礼した莉羅に頷き、扉を開けさせる。ふわりと薫風の香りが漂ってきた。
「其方らは、続きの間に控えていよ」
烏と莉羅にそう命じ、朱夏は一人室内へ足を踏み入れた。後ろで、ぱたりと扉が閉じられる。
薄明かりに照らされた室内で、濃紺の夜着を纏った煌姫が緊張した面持ちで長椅子に腰掛けていた。ゆっくり近づく。
「……煌」
そっと声を掛けると、俯いていた煌姫がびくりと身を震わせた。恐る恐る、と顔を上げた煌姫の顔色は蝋燭の明かりを受けて白く輝いている。
「朱夏、さま……」
「美しく装ってくれたのだな。よく似合っている」
薄茶色の髪は湯殿で丁寧に洗われ、丹念に梳られて艶めいている。ほんのりと紅を差した唇は微笑みを浮かべようと微かに震えていた。
朱夏は煌姫に手を差し出した。
「覚悟はよいか?それとも、少し飲みながら話をするか?」
卓の上には、祝いの酒が用意されていた。煌姫にはまだ早いかもしれないが、酒の力を借りて緊張が解れるならばそれもよいかと朱夏は思う。
ゆっくりと首を振り、煌姫が朱夏の手に己の手を重ねて立ち上がった。
「その……お酒は、飲んだことがございませんから」
「そうだな」
「あの、その……」
「何だ?」
手を重ねたまま、言い淀む煌姫に朱夏は首を傾げた。
「あちらの方は、その……お酒を飲まれますの?」
濡れた瞳を朱夏に向け、煌姫がか細い声で尋ねる。
舎利のことを聞いているのだと理解した朱夏は、頭の奥がかっとなって思わず煌姫の体を抱き寄せた。
「しゅ、朱夏さま……っ?」
驚いて身を竦ませる煌姫の耳元に唇を寄せ、朱夏は囁いた。
「よいか、煌。一つ言っておく」
「は、はい」
「夫婦の寝所で、他の女の名を出すなど無作法なことだ」
「っ!」
驚きに目を瞠る煌姫の額に口づけを落とし、朱夏は言葉を重ねる。
「無論、其方が他の男の名を呼ぶことも、許さぬ」
「ほっ、他の殿方など……っ」
「つまりな。閨の内で、互いの名以外を呼んではならぬと、そういうことだ」
煌姫のこめかみに唇を当て、さらに頬にも口づけしながら朱夏は囁く。
「今宵、この寝所で、外のことなど思い出す必要はない。私だけを、見つめていよ」
「はい……」
細い顎に指をかけ、朱夏は煌姫の顔を上げさせた。揺らめく薄桃色に、吸い込まれそうな心地がする。
ようやく、この腕に取り戻せたのだと、その思いが朱夏の胸を高揚させた。
薄く柔らかい唇に、朱夏はそっと自身の唇を重ねた。腕の中で身動ぐ煌姫が、躊躇いながら瞳を閉じる。
どれほどの時間が経ったろうか。
ようやく唇を離した時には、煌姫の呼吸は荒くなっていた。上気した頬を撫で、朱夏は煌姫の体を横抱きに抱き上げた。
「しゅっ、朱夏さまっ?」
「其方は待てぬと言った。私も、もう待たぬ」
しっかりと煌姫を抱えたまま、朱夏は寝台へと移動した。華奢な体を横たえ、天蓋の薄布をそっと下ろす。
外界から視界を閉ざされ、煌姫が怯えたように朱夏を見上げた。その唇を、朱夏は親指でなぞる。
「朱夏、さま……」
「其方がここにこうしていることが、たまらなく嬉しい」
「……っ」
再び口づけを交わし、朱夏は煌姫の上に覆いかぶさる体勢でじっとその瞳を見下ろした。
「其方を名実ともに我が妻とすることを、ずっと待っていた」
熱の籠った声に、煌姫が酩酊したように瞳を潤ませた。
「其方は私の愛する妻だ。其方に信じてもらえるまで、何度でも伝えよう」
しゅるり、と煌姫の帯紐を解き朱夏はその玉のような肌に唇を落とす。
「煌、愛している……」
「しゅ、朱夏、さま……」
涙の滲んだその声ごと飲み込むように、朱夏は煌姫の柔らかい唇をもう一度塞いだ。
四季の国を治める帝である朱夏が、その正室煌姫と結ばれた、秋の一夜であった――。




