弐佰参拾捌
両大臣に背を見送られつつ、朱夏は烏を伴って奥宮へと戻ってきた。
黒門で来訪を告げる。すでに櫻花楼の荷車は宮中から下がっており、凛慈へは何事もなかったと書状を出してあった。
烏を黒門に残し、奥宮から出てきた女性の武官を護衛に引き連れて、朱夏は舎利の私室へと足を進めた。
固く閉ざされた扉の前に立ち、朱夏は護衛の武官に室内へ訪れを告げるように命じる。
「……どちらさまでございましょう」
室内から扉越しに、浪嶺の警戒した声が答えた。
「待たせたな、浪嶺。脅威は去った。扉を開けよ」
かちゃり、と内から鍵を開ける音が響き、細く扉が開かれた。こちらを窺う浪嶺の薄紅色の瞳が見える。
朱夏の姿を確かめ、ほっと安堵の息を漏らした浪嶺が大きく扉を開けた。
「ご無礼致しました、今上さま」
「よい。其方は朕の命に従っただけだ」
室内に足を踏み入れ、朱夏は長椅子に座る舎利と和沙に抱かれる春明に視線を向けた。
その場にいる者が部屋の中央に集まり、身を寄せ合っていた。何事か起きたなら、すぐさま舎利と春明を逃がせるように、隣室の扉も開け放たれている。帝一族だけに伝えられる抜け道が隣室の床下にあることは、和沙と浪嶺だけに知らされていた。
長椅子に近寄り、朱夏は皆の顔を見渡して声を掛けた。
「済まぬ。戻りが遅くなった」
ほっ、と表情を緩ませた舎利が、腹を撫でながらゆっくりと立ち上がろうとした。
「ああ、そのままでよい」
「いえ、少しは動いた方がよろしいですから」
「ちちえー!」
和沙の腕の中で、ぱたぱたと手足を動かす春明に朱夏も微笑んだ。床に下ろされた春明が、短い足を懸命に動かして歩いてくる。
小さな息子を抱き上げ、朱夏はその頬を撫でた。ぷに、と弾力のある肌が朱夏の指を押し返す。
何事もなく、こうしていつもの光景を見られることに安堵の息が漏れた。
「今上さま、お茶を召し上がりますか?」
扉を閉じた浪嶺に目配せする舎利に、朱夏は首を振ってみせた。
「いや。すぐに戻らねばならぬ。今宵は渡って来られぬから、それを伝えに参った」
「まあ。お忙しいのですね」
眉を下げた舎利が、朱夏のすぐ側まで歩み寄ってじっと見上げてきた。気まずくなった朱夏は、そっと目を逸らす。
その様子に首を傾げつつ、舎利は春明の頭を撫でた。
「束の間でも、お顔を見られて嬉しく存じます。春明も、こうして喜んでおりますし」
「そう……そうだな。其方は体調はどうだ?」
「ふふっ。先ほどまでは少し不安でございましたが。こうして今上さまにお会いできて、とても気分がよいですわ」
片手で春明を抱いたまま、もう片方の手で朱夏は舎利を引き寄せた。ふわり、と舎利の香が朱夏の鼻を擽る。
「ははえー!ちちえ、いっちょね」
「そうね。お父上さまが一緒にいてくださって、嬉しいわね」
朱夏の腕の中で、幸せそうに微笑む舎利の姿に胸が痛んだ。今宵夏の宮で過ごすことを、本当なら正直に伝えるべきである。だが、懐妊中の舎利に衝撃を与えたくはなかった。
結い上げた群青色の髪の毛先にそっと口づけ、朱夏は春明の体を下ろした。
「やあーっ。ちちえ、もっちょ!」
両腕を広げて不満そうに頬を膨らませる春明に、和沙が近寄ってきた。
「まあまあ、親王さま。お父上さまはお忙しいですからね。和沙がお抱き申し上げましょうね」
「やー!ははえ、らっこぉ!」
「お母上さまには、お加減がよろしくなってから抱いていただきましょうね」
春明を宥めながら、和沙が軽々とその体を抱き上げた。恰幅のいい腕の中、春明がいやいやと頭を振る。
「やーあーっ!」
「まあまあ。和沙ではご不満でございますか?親王さまに嫌がられては、和沙も泣いてしまいますわ」
ぐずりだした春明の背を叩きあやしながら、和沙が朱夏からゆっくり離れる。
「うぅー……ははえぇー」
「今日は午睡のお時間を取れませんでしたものねぇ。ほら、親王さま。少しずつ眠くなってこられましたでしょう?」
「ねむねむ、なぃー……」
「和沙がずっとついておりますからね。安心なさってくださいませね」
歌うような口調で春明に声を掛けながら、和沙が隣室へと姿を消した。
その場に残された朱夏は苦笑して舎利を見つめる。
「午睡ができなかったのか」
「昼餉の後、内庭でお茶をしてから午睡をさせるつもりでしたの」
「そうか……」
舎利の腹に障らないように力を入れずに、朱夏は舎利を抱きしめた。
「……朱夏さま?」
「済まぬ。しばらく来られぬかもしれぬ。怖い思いをさせたところだというのに、済まない」
今宵煌姫と初夜を迎えたなら、宮中の作法に則って三日は夏の宮に通わなくてはならない。奥宮にも昼の間に来ることもできなくはないが、その分政が疎かになる。
そっと、朱夏の背に舎利の腕が回された。宥めるように、優しく撫でる手の感触に朱夏は目を閉じる。
「わたくしには、春明がおります。和沙も浪嶺もついていてくれますわ。お会いできないのは寂しいですけれど、朱夏さまはお忙しい御身。お気になさらないで」
「……済まぬ」
謝ることしかできない朱夏に、舎利が軽やかな笑い声を上げた。目を開けた朱夏の視界に、舎利の悪戯そうな笑みが映る。
「では、再びこちらへお渡りの際には、珍しい菓子など持参してくださいませな」
「菓子?」
「春明が喜びそうなものを、ぜひ。それで許して差し上げます」
しかつめらしくそう告げる舎利に、朱夏は思わず破顔した。




