弐佰参拾伍
舎利と春明が私室へと戻るまで目を離すまいと、朱夏は立ち尽くす煌姫に視線を向けた。
感情を削ぎ落としかのような表情で、ぼんやりと床に押さえつけられた秋穂を眺めている。
信頼する侍女長を助けるでもなく、朱夏を責め立てるでもないその様子に、朱夏は胸を痛めた。
感情豊かであったあの頃の煌姫の笑顔を、もう一度見せてほしいと願わずにはいられない。だが、どうすれば煌姫の心を慰めることができるのか、朱夏は掴みかねていた。
煌姫に歩み寄り、その視界から舎利たちの姿を隠すような位置に立った朱夏は、そっと肩に手を置いた。
「煌。夏の宮まで、私が送っていこう」
「……」
「秋穂は戻せぬ。どうも、其方に余計な雑音を聞かせるようだからな。しばらく本宮で預かる」
朱夏の背後を、和沙や浪嶺に護られた舎利と春明が通り過ぎる。和沙に抱き上げられ、春明のはしゃぐ声が聞こえてきた。
「ははえ、げんちなっちゃ!ちちえ、いっちょ。うれちね?」
「ええ、ええ。親王さま。その通りでございますからね。今しばらく、お静かにしていましょうね」
「やぁーよっ!ちゅんめぇ、うれちよ」
「春明。わたくしも嬉しくて元気になりましたからね。お部屋まで、静かに戻りましょうね」
和沙と舎利は声を潜めてはいるが、すぐ側を通り抜けるのに煌姫の耳にまったく聞こえないというのは無理な話であった。
のろのろと、煌姫の視線が朱夏の後ろへ向けられる。薄桃色の瞳に感情が見えず朱夏は焦った。
煌姫の視線から逃れるように、足早に通り過ぎようとするが、幼子を抱いた和沙と身重の舎利では駆けるわけにもいかない。どうしても遅くなる歩みの分だけ、煌姫の注意は彼女たちに向く。
内心の焦りを抑え、朱夏は煌姫の腕を掴んで己へ引き寄せた。驚いたように、煌姫の瞳が見開かれる。
「朱夏、さま……?」
「見たくなければ、目を閉じていよ。其方を傷つけたくはない」
朱夏が煌姫を抱き込んで視界を塞いでいる間に、舎利たちは回廊を通り抜けて角を曲がっていった。
最後まで、春明の高い声を響かせながら。
安堵の息を漏らし、朱夏はようやく煌姫の瞳を覗き込んだ。薄桃色を揺らしたまま、舎利たちが消えた方をじっと見つめている。
「煌。夏の宮へ戻ろう」
「……わたくし、一人で戻れますわ」
「ならぬ。其方は私の正室ぞ。供も連れず、宮中を歩くことなど許されぬ」
きっぱりと告げ、朱夏は煌姫の体を腕の中から解放して汐之に視線を向けた。
「侍女長は、表宮の一室に軟禁しておけ。我が息子に害をなそうとしたのだからな。罪に問わねばならぬ」
「御意」
秋穂を処罰すると言い切った朱夏に、煌姫は何も言わなかった。昔の彼女ならば、きっと減刑を訴えてきたであろう。煌姫を思うあまりの暴走であると、朱夏にもわかってはいる。煌姫が訴えるならば、処罰を軽くする心づもりもあったのだが。
煌姫の手を引き、朱夏は回廊を歩き始めた。
大人しくついてくる煌姫にひとまず安堵し、朱夏は夏の宮へと向かうのであった。
烏を筆頭とした護衛を引き連れて夏の宮に現れた朱夏の姿に、宮を護る武官や侍女たちが慌てた様子で走り回る。
入口で沓を替え、朱夏は無言のまま煌姫を私室まで連れて進んだ。額に汗を浮かべた莉羅が、青い顔で駆け寄ってきた。
「お方さまっ」
煌姫の前で膝をついた莉羅に、朱夏は厳しい声を掛けた。
「莉羅。煌から目を離したのか?何故だ」
「あ、あの……っ。朝餉は普通に取られたのです。その後、秋穂さまと庭の芒を眺めると仰せになって」
「それで、其方は持ち場を離れたのか?」
煌姫を長椅子に座らせながら、朱夏はさらに尋ねる。
「お昼の支度を済ませ、お部屋に戻りましたなら、お方さまと秋穂さまのお姿が見えずっ」
つまり、煌姫を奥宮へ連れて行ったのは秋穂の独断ということだ。
「朝餉のお時間に、秋穂さまがお方さまにお話になられたのです。本日は、櫻花楼から宮中への献上品が届く日だとっ」
櫻花楼の訪れ自体は、秘匿していることではない。宮中に過ごす者ならば、知っていて当然の情報ではあった。
「本当に久方振りに、お方さまが笑顔を見せてくださって……」
「笑顔?」
「外国からの珍しいお品を運んでくるだろうとお聞きになって、瞳を輝かせて」
長椅子に座った煌姫は、再び表情を消していた。何を考えているのか、朱夏にはわからない。
「お心が晴れるならばと、櫻花楼の者を夏の宮に呼び寄せようかと考えておりました」
「……それで」
「今上さまのお許しを得た方がよいと、秋穂さまに奏上致しましたが。お方さまのなさることに、今上さまがお怒りになるはずはないと、笑って仰せになって」
堪えられない舌打ちが朱夏から漏れた。床に膝をついたまま、莉羅の肩が跳ねる。
「仔細はわかった。後は煌と二人で話す。其方は下がっていよ」
「は、はい。あの、秋穂さまは……」
「少し事情があって、本宮で預かっている。秋穂が戻るまで、其方がこの宮の侍女たちを束ねよ」
思ってもみなかった命令に目を瞠り、莉羅は深々と頭を下げて私室を出ていった。
長椅子の煌姫を立ったまま見下ろす。
膝の上で握りしめた手が震えているように見えた。
「……煌。何故、奥宮へ行った?秋穂に何を言われたのだ?」
「……」
「私には、言えぬか?」
溜息を吐いた朱夏は、煌姫の前にしゃがんでその顔を真っ直ぐに見上げた。
「煌。帰国してから、其方が私を避けているのはわかっている。だが、それでも私たちは夫婦なのだ。其方が何を思っているのか、私に話してはくれぬか?」
「……」
答えない煌姫に焦燥感が募り、朱夏は乱暴に己の頭を掻いた。溜息を一つ零し、立ち上がる。
「私は退散しよう。莉羅を側に置いて、ゆるりと休むがよい」
「……御子、を」
「うん?」
消え入りそうな呟きに、朱夏は聞き返した。
「何だ?」
「……わたくしにもっ、……御子をっ。朱夏さまの御子を、授けてくださいませ……っ」
悲鳴のように叫ばれたその声に、その内容に、朱夏は目を見開いて固まった。




