弐拾弐
桜の離宮の入口に、帝だけが使用を許されている輿が止められていた。
朱夏の心拍が上がる。何故、父の輿がここに――。
輿の隣に立つ帝の側仕えに近寄る。
「父上がおいでなのか?」
尋ねられた側仕えの青年は、朱夏に拝礼した後で答えた。
「はっ。本日は、煌姫さまが夏の宮にお移りになるとのことで、お祝いにお出ましでございます」
「祝い……」
「親王さま、急がれませんと」
後ろから烏にそっと声を掛けられ、朱夏は唇を噛んで離宮へと足を踏み入れた。
爽やかな夏の風が庭から吹き抜け、廊下を進む朱夏の頬を撫でる。
春日と煌姫の居室の扉の側で、帝の護衛が部屋を守るように立っていた。
「ご苦労」
「はっ」
「朱夏親王さま、お越しでございます」
護衛の二人が、それぞれ朱夏と部屋の内に声を掛ける。
ゆっくりと中から開かれた扉から、侍女の春香が顔を出した。
「ようこそいらせられませ、親王さま。皆さま、お待ちでございます」
開け放たれた扉から室内に入ると、父と叔父、煌姫が談笑しているところだった。朱夏に気づき、煌姫が顔を輝かせる。
「従兄さまっ」
ぴょんと音がしそうな動きで椅子から飛び降り、体勢を崩して転びそうになる煌姫を駆け寄って支えた。
「こら。危ないではないか、従妹どの」
朱夏が嗜めると、照れたように頬を染めた煌姫が微笑む。
「ごめんなさい。お会いできて、うれしかったのだもの」
「私も、其方に会えて嬉しいよ」
従妹の体から支えていた手を離し、父と叔父に向き直った。
「ご機嫌麗しゅう、父上、叔父上」
「ああ」
「よく参られた、朱夏親王」
濃紺の髪と青灰色の瞳という同じ色を持つ二人が並ぶと、やはり兄弟なのだと思わされる。それは己も同じことか。
朱夏は苦笑しながら二人に近づいた。後ろを、ぱたぱたと煌姫がついて来る。
「こら、煌。足音を立てない」
「よいではないですか、叔父上。従妹どのの歩幅に合わせなかった私が悪い」
足を止めて振り返り、朱夏は従妹姫に手を伸ばした。
今日の煌姫は、薄桃色の衣に薄茶の裳を合わせていた。腰に濃紺の帯を締め、薄桃色の沓を履いている。
「綺麗に装ってくれたのだね。よく似合っているよ」
「これ、従兄さまのお色なのですって。はるかが、言っていたわ」
帯を指し示し、嬉しそうな笑顔を浮かべる煌姫を宮中の者が微笑ましく見つめていた。
この離宮で饗される桜の香りの茶を口に含み、朱夏は息を吐いた。
「もう少しゆっくりしていきたいのですが。私も、午後からはまた勉学と鍛錬に励まねばなりません。離宮を辞することをお許しいただけますか」
午前は煌姫の迎えの時間に充てたため、昼餉以降の朱夏の予定は多忙だった。
「今日くらいは、すべての予定を休んでもよかったものを」
「いや、兄上。朱夏親王のこういう生真面目さが、私はよいところだと思いますよ」
「正式な輿入れではありませんから。それほど仰々しい支度はしておりません。従妹どのと、二人並んで歩いて夏の宮へ戻りたいと思います」
幼い従妹の足に合わせて歩くとなると、己一人で戻るよりも時がかかる。そろそろこの離宮を出発したかった。
隣に座る従妹に視線を向ける。名残惜しさや心細さを感じているようならば、父帝の言うように今日の予定は取りやめにしてもう少しここにいてもいい。
朱夏の視線に気づき、煌姫はにっこりと笑顔を浮かべた。
「従兄さまが、手をつないでくださるの?」
「そうだね。これからは、私と手を繋いで歩くんだ。……嫌かい?」
朱夏の問いかけに首を振り、煌姫は己の小さな手を見つめた。
「あのね、従兄さま」
「うん?」
「わたくし、いそいで大きくなるから。だから、わたくしのおそばに、いてね」
「……っ」
真剣な瞳をした従妹に、朱夏は何と答えてよいのかわからなかった。何故、そんなに思い詰めたような表情をしているのか。
何も答えない朱夏を不安そうに見上げる従妹に、我に返って笑みを作る。
「勿論だ、従妹どの。これからは、ずっと一緒だ」
「どこにも、行かないでね?」
縋るように袖を掴まれ、朱夏は小さな手にそっと手を重ねた。先年亡くした母を思っているのかもしれない。父と離れ離れになることへの不安があるのかもしれない。
きゅっ、と従妹の手を握り込み、優しく言葉を紡いだ。
「どこにも行かない。其方の側にいる」
「……わたくしだけを、見ていてね」
「何がそれほど不安だ?私は、いつも其方を見ているだろう?」
首を傾げてみせると、煌姫は困ったように眉を下げて首を振った。
「従兄さまを、しんじるわ」
胸の内に、重い誓いを求められたような罪悪感が過った。
気のせいだと、己の心に蓋をして、朱夏は優しく微笑んだ。
「其方を大切にするよ、従妹どの」




