弐佰参拾参
奥宮の廊下を駆け抜け、朱夏は舎利の私室の扉を乱暴に開いた。
息を切らして足を止めた朱夏は、室内に誰もいないことに眉を顰める。額から流れる汗を拭い、汐之を振り返った。
「誰もいない……」
弱々しい声を聞き、汐之がすぐさま廊下へと飛び出した。廊下を歩く侍女を呼び止め、舎利と春明の所在を確かめる。
「第二室さまと春明親王さまは、お部屋におられないようだが。どちらへ行かれたか知っているか?」
「えっ、あっ?そ、湊刃の大臣さまっ?」
驚愕に目を瞠った侍女を人好きのする笑みで宥め、汐之が穏やかに言葉を重ねた。
「今上さまのお許しを得て、第二室さまと親王さまのご機嫌伺いに参った。どちらへおいでか?」
「あ、その……本日は過ごしやすいお天気ですので、内庭でお茶を楽しまれると仰せでございました」
「そうか。では、我らもそちらへ向かうとしよう。仕事の邪魔をして済まぬな」
「いいえっ。とんでもございませぬっ」
頬を紅潮させて頭を下げ、立ち去った侍女の背を見送った汐之が朱夏を振り返る。
「今上さま。参りましょう」
「あ、ああ……」
唇を引き結び、朱夏は頭を振って私室から足を踏み出した。
呆けている場合ではない。舎利と春明の無事を確かめ、煌姫を夏の宮へ帰さなければならなかった。
舎利の私室から内庭までは、回廊を回り込んで行かなければならなかった。奥宮の建物で囲うように設えられた内庭は、季節の花々が見る者の目を楽しませる造りをしている。
過ごしやすい気候のこの時期には、帝の側室たちが東屋で茶を楽しむ姿がよく目撃される。
内庭への出入口へ通じる最後の角を曲がったところで、朱夏の目に立ち竦む煌姫の姿が飛び込んできた。
駆け出しかけていた朱夏の足が止まる。回廊に佇み、櫻花楼からの献上品らしき絹地を胸に握りしめ、表情のすべてを消して一点をじっと見つめていた。
煌姫の凝視する先を見やり、朱夏は小さく息を吐いた。
内庭の様子がよく見えるようにと、壁一面を硝子張りに造り直したのは、何代前の帝であったか。その硝子窓から、内庭の東屋で茶を飲む舎利の姿が見えていた。すぐ側の地面で、春明がしゃがみ込んで何かを叫んでいる。
浪嶺が舎利の傍らに立ち、体が冷えないようにと膝掛けを掛けてやっているところであった。和沙は春明のすぐ側に控え、にこにこと常と変わらない笑顔を浮かべている。
朱夏の見慣れた、いつもの奥宮での光景であった。
一歩足を踏み出し、朱夏はそっと、声を掛けた。
「……煌?」
ぴくり、と絹地を持つ指先が震えた。だが、煌姫は朱夏の方に視線を向けない。ただじっと、内庭の光景を眺めていた。
こちらから見て煌姫の向こう側に立っていたらしい秋穂が、朱夏の姿を見つけて目を細めて笑顔を浮かべた。
「まあ、今上さま。今は執務のお時間では?」
もう一歩、朱夏は煌姫に近づいた。刺激しない方がいいと、朱夏の頭の奥で冷静な己が告げている。
「其方らの姿を見かけたとの知らせを受けたのでな」
「それで、政を放って来られましたの?帝が奥宮に入り浸ることは、あまり褒められたことではございませんわ」
慈愛に満ちた表情で、秋穂が朱夏を窘めた。幼い頃、悪戯をする朱夏を叱った乳母の顔と、変わらない表情であった。
「煌は夏の宮で静養していると思っていたからな。奥宮を訪ねるとは聞いていない」
「何もおかしなことはございませんでしょう?本来ならば、今上さまのご即位とともに、お方さまも奥宮へと移られるはずでしたもの」
胸を反らして両手を合わせる秋穂の様子からは、悪びれたところが少しも感じられなかった。本心から、そう思っていることが窺える。
「だが、今の其方らの住まいは夏の宮だ。奥宮へ来るのならば、朕の許可が必要となる」
「……まあ。ここは、お方さまのお住まいでもありますのに?」
不愉快そうに眉を顰めた秋穂に、か細い声が掛けられた。
「秋穂。もうよいわ。わたくし、戻ります」
「何を仰せですか、お方さま。そのお品を、あちらへお渡しなさるのでしょう?」
煌姫の胸元に目をやった秋穂の言葉に、朱夏は眉を寄せた。
「其方が、第二室にそれを手渡すつもりでいたのか?櫻花楼からの献上品であろう?」
「……」
「奥宮へ品を献上に来た商人から、権力をちらつかせて奪い取るなど、それこそ褒められたことではないぞ」
朱夏の言葉に秋穂が息を呑んだ。煌姫の帝一族としての誇りを、正室としてのあり方を否定するような言葉に、怒りで顔を赤くしていく。
「何と……あんまりなお言葉……やはり、今上さまは誑かされておいでなのですねっ」
「秋穂?何を……」
「あのようなっ。湊刃家の姫ということでしたが、何といやらしい!ご正室さまがご不在なのをよいことに、その体を使って今上さまを耽溺させたのでございましょうっ」
あまりの侮辱に朱夏は目眩がした。頭の中が真っ白になり、気づけば秋穂に駆け寄りその頬を張っていた。
その場で倒れた秋穂が、頬に手を当て呆然と朱夏を見上げる。
肩で息をした朱夏に、汐之が静かに近づいて声を掛けた。
「今上さま。あまり女人に手荒なことは……」
「其方は何故怒らぬっ。湊刃を侮辱されたのだぞっ」
「慣れておりますからねぇ」
困ったように眉を下げ、汐之は秋穂に手を差し出した。
「侍女長どの。立てますか?」
「そ……湊刃の大臣……?」
汐之の姿にようやく気づいたのか、秋穂の瞳が驚愕に見開かれた。
「我が家を貶されるのは構いませんがね。第二室さまは、今上さまに入内なさり、御子もお産みあそばされたのです。高いご身分の方相手に、先ほどのご発言は迂闊ですぞ」
噛んで含めるような汐之の言葉に、秋穂の唇がわなわなと震えた。
「たっ、たとえ御子を産んでおられようともっ。たかがご側室ではございませんかっ!」
悲鳴のような秋穂の声が、回廊に響き渡った。




