弐佰弐拾捌
知らせもなく奥宮の私室に現れた朱夏の姿に、舎利を始めとした室内の女たちが驚きに目を瞠った。
寝台に横になっていた舎利は慌てて起き上がり、舎利の背をさすっていた和沙は浪嶺に茶を淹れるように指示する。
舎利のための煎じ薬を用意していた薬師は呆然と立ち尽くし、むくれていたらしい春明がよたよたと朱夏に近寄ってきた。外国渡りの玩具で遊ばせていた汐之も、朱夏の姿に驚きを隠せずにいる。
「ちちえ!らっこ!」
両腕を広げながら歩いてきた春明の姿に、朱夏は詰めていた息をようやく吐き出した。しゃがみ込み、抱っこをねだる春明を抱き上げてやる。
きゃっきゃと笑い声を上げる春明に、朱夏の口元にも笑みが浮かんだ。
「ご機嫌だな?」
「ははえ。げ……げんち、ないない。めぇ、やっ」
「う、む?」
「ちちえ、ちた!ははえ、げんちなりゅ!」
難解な言葉に首を傾げながら、春明を抱いたまま朱夏は寝台に近づいた。
「具合はどうだ?」
和沙に支えられながら寝台の上で座る舎利が、眉を下げて微笑んだ。
「吐き気が少し……平気ですわ。今上さまこそ、どうなさったの?」
「ははえー!げんち、なっちゃ?」
「ふふっ。ありがとう、春明。父上さまも春明もいてくれるから、母も気分がよくなりましたよ」
舎利の答えに上機嫌に頭を振り、春明が朱夏の腕の中で両腕を揺らす。
「まあまあ、親王さま。そろそろ午睡のお時間ですからね。お隣にお連れ致しましょうね」
「やー!ちちえ。ははえ。いっちょ!」
朱夏から春明を受け取ろうとした和沙が、あらあらと笑う。
「日の高い内に父君がおいでになって、興奮なさったのかしら。今上さま、どうなさいますか?」
「舎利の体に障らぬなら、構うまい」
そう言って、朱夏はそのまま舎利の寝台に腰を下ろした。春明が懸命に舎利に向かって腕を伸ばす。
「ははえー。めぇ、らっこ」
「あら。せっかく父上さまに抱いていただいているのに、よいのかしら?」
「ちちえも!ははえも!めぇ、らっこ」
「まあまあ。欲張りだこと」
くすくす笑って舎利が腕を広げたが、朱夏は首を振って春明に言い聞かせる。
「春明。母上はお加減がよろしくないからな。父の膝の上で寛ぐがよいぞ」
「やー!ははえも!」
「其方は帝の親王ぞ。そう我儘を言うものではない」
「やっ!」
朱夏の腕から逃れようと、春明が暴れだしたが、幼子の力で朱夏に叶うはずもなかった。思うように動けず、春明の機嫌が下降していく。
「やあぁー!」
ばたばたと手足を動かす春明を、和沙が再び腕を広げて引き受けた。
「まあまあ、親王さま。やはり午睡が必要ですわねぇ。さあさあ、和沙とお隣に参りましょうねぇ」
「やあっ。ねむねむ、ない!」
「そうですねぇ。ですけど親王さま。和沙がお歌を歌うのがお好きでございましょう?お隣で、和沙が歌って差し上げますからねぇ」
「やあーっ……うちゃ?」
春明の背を叩き、あやしながら和沙が隣室へ消えていくのを見送って朱夏は苦笑を零した。
隣室との扉が閉められた後、朱夏は浪嶺も薬師も部屋から下げさせた。舎利と二人きりになり、小さく息を吐いた朱夏に舎利が気遣わしげな視線を向ける。
「……お疲れでございますか?」
舎利は朱夏の顔色をよく読む。春明がいたことで気が紛れていた朱夏だが、浮かない気持ちが滲んでいる表情を案じているようだ。
「済まぬ。少し……表宮に戻る気にはなれなくてな」
朱夏は今日、夏の宮へ渡っていたはずである。そのため、汐之が許可を取って奥宮へと立ち入っていたのだ。その汐之は、むずがる春明を連れた和沙について、隣室へと姿を消していた。
ここが帝の私的な空間だと認識している汐之は、朱夏から声を掛けられるまでその存在感を露わにすることはない。
舎利がそっと朱夏の髪を撫でた。その手に手を重ね、朱夏は舎利の指先に口づけた。
「朱夏さま。少しお休みになられますか?」
「そう、だな……膝を借りてもよいか」
「えっ?」
朱夏の言葉に目を見開き、舎利はすぐに微笑んだ。
「それで朱夏さまのお気持ちが安らぐなら、いくらでも」
その言葉に朱夏も笑みを浮かべた。舎利の腹部に触らないように気をつけながら、朱夏はそっと舎利の膝に頭を乗せる。
柔らかく温かな感触に、ささくれだった朱夏の心が少しずつ落ち着いていく。目を閉じれば、先ほどまでの夏の宮での光景が思い起こされる。
煌姫のあの様子では、とても正室の務めを果たせるとも思えない。舎利や春明に会わせることも躊躇われた。このまま、夏の宮で静養させるのがよいのだろうか。
眉間に皺の寄った朱夏の頭を、柔らかな手が撫でた。目を開け朱夏は舎利を見上げる。
「朱夏さま。ここにおいでの間は、背負っておられるものを少し下ろされませ」
「え……?」
「貴方さまが、ただの朱夏さまとしてここで休まれたとて、誰も責めたり致しませんわ」
舎利の言葉に溺れそうになる朱夏は、苦笑とともに再び瞳を閉じた。
「其方は、いつでも私を甘やかす」
「ふふっ。それがわたくしの幸せですのよ」
頭を優しく撫でる感触に身を任せ、朱夏はいつの間にか微睡んでいた。




