弐佰弐拾漆
己の腕の中から逃れようとする煌姫の動きを許さず、朱夏は細い身体を抱き込んだ。
赤い耳元に唇を寄せ、低く囁く。
「答えよ。誰の肌を見た?」
「あ……」
「其方は私の正室ぞ。他の男を見ることなど、許されぬ」
朱夏の腕の中で首を振り、煌姫がその身を震わせた。
「煌。私には言えぬことか?」
「そ……そのような、ことは」
涙の跡が残る頬を紅潮させ、煌姫が潤んだ瞳で朱夏を見上げた。その表情に、朱夏はこくりと喉を鳴らす。
駄目だ。劣情など、今の煌姫に向けてはならない。胸の内の熱を逃がすように、朱夏は大きく息を吐き出した。
「しゅ、朱夏さま……」
「もうよい。其方も私も、平静ではいられないようだ。私は本宮へ戻る」
「……っ」
煌姫を抱きしめる腕から力を抜き、朱夏は長椅子から立ち上がった。縋るように、煌姫の指が朱夏の袖を掴む。
「……何だ?」
「あの、わたくしは……」
「其方が、無事の身のまま戻ったことはわかっている。だが、長く離れたことで其方が私に心の内を明かせないのならば、落ち着くまで夏の宮で穏やかに過ごすとよい」
その言葉に反応したのは、床に膝をついたままの秋穂であった。
「今上さま、それはあんまりなお言葉でございます」
「そもそも、其方が第二室のことを、煌の耳に入れたのであろうが。煌の心を惑わせているのは、其方も同じことだぞ」
「隠したとて、いずれはお耳に入ることでございましょう?心ない下々の噂話などお聞かせするより、わたくしがきちんとお話した方がよろしゅうございました」
己は何も悪くないと、そう思っているのがよくわかる秋穂の表情に朱夏は溜息を吐いた。
「まあ、それももうよい。聞かせてしまったものは仕方ないからな」
踵を返しかけた朱夏を、秋穂の声が追いかける。
「今上さま。今宵はこちらでお休みになられるのでは?」
「そのつもりであったが。煌は私がいない方が、心穏やかに過ごせるようだからな」
朱夏の言葉に、袖を掴んでいた煌姫の指先から力が抜けた。目を大きく見開き、唇を震わせている。
「明日また……ああ、いや。其方が私と話してもよいと、そう思ったなら表宮へ遣いを出せ。すぐにここへ来よう」
「朱夏さま……」
「秋穂、莉羅。煌をゆるりと休ませてやるように」
それだけ言い置いて、朱夏は烏を伴って煌姫の私室を出た。
廊下を歩く間、気遣わしげな視線が烏から寄越されるが、朱夏は口を開かなかった。
私室に取り残された煌姫は、朱夏が出ていった扉を呆然と見つめていた。
長椅子に座ったまま、莉羅が茶器を片づける音だけをぼんやりと聞いている。
秋穂が憤慨したように叫んだ。
「今上さまは、どうしてしまわれたのでしょうか。何故、お方さまを置いて本宮になどっ」
答える声は上がらない。
「お方さまもお方さまですわよっ。何故、もっとお引き留めになりませんでしたの!」
びくり、と煌姫の肩が揺れた。扉から秋穂へと視線を移す。
「秋穂……?」
「今上さまが愛しておいでなのは、お方さまだけなのでございますよっ。夏の宮でともにお過ごしになられるように、もっとお甘えなさいませっ」
眉を下げた煌姫は、先ほどまで朱夏が座っていた長椅子の座面をそっと撫でた。
「でも、朱夏さまには、他に愛する方がおいでなのでしょう?」
「それも申し上げましたっ。あちらは、今上さまのお体のお慰めと、政の難しい問題が絡んでのお迎えとなった方ですっ。お方さまとは比べるべくもございませんわ!」
唾を飛ばして言い募る秋穂に、煌姫は悲しげに微笑んで首を振った。
「殿方が、女人の肌に溺れることがあると、わたくしはもう知っていてよ」
「なっ、何を仰せですかっ」
「海の向こうで、わたくしは驚くような光景を見てしまったの。この国とは何もかもが違って、でも女人たちは皆幸せそうで……」
煌姫の脳裏に浮かぶのは、泣きそうな顔で微笑んでいたかつての侍女の姿である。膨らんだ腹を撫で、帰れない故国を想って遠くを見つめていた。それでも、煌姫に心配をかけないようにと、精一杯気を張っていた。
「あの光景を見て、わたくしにも何となくわかってはいたの。朱夏さまは帝となられたのですもの。いつまでも、わたくしだけの従兄さまではいられないと」
「姫さま……」
「それでも、知る人のいないあの国で、朱夏さまがお約束くださったお言葉だけがわたくしの支えだったから。わたくしの帰りを、きっと待っていてくださると信じるしか、わたくしにはできなかったから」
薄桃色の瞳から、三度涙が溢れる。
「こうして帰ってくることができて、それだけでわたくしは運がよかったのだと、そう……思わなくては……っ」
「何故……何故、そのお気持ちを今上さまにお伝えになりませんでしたのっ?そうしていれば、今上さまだってこちらに留まってくださったでしょうに……」
「言えるわけないじゃないっ!」
悲鳴のような声に、秋穂が思わず押し黙った。この国で最も高貴な血を持つ姫君の震える姿に、言葉が出てこなかった。
「……言えるわけ、ないでしょう?今上さまになられたのですもの。わたくしの我儘で、縛りつけてはいけないわ」
「姫さま……」
静かに涙を零す煌姫の嗚咽を堪えた息遣いだけが、私室の空気を重苦しく満たしていた。




