弐佰弐拾陸
耳が痛いほどの静寂が室内に流れる。
ようやく唇を離した朱夏は、じっと薄桃色の瞳を覗き込んだ。大きく見開かれ、ぽろぽろと涙を零すさまが美しいと、場違いにも朱夏は思った。
目の前にいるのは、今腕の中にいるのは、誰に憚ることない己の正室なのだ。
「煌、私は其方に会いたかった」
「……っ」
「其方を忘れたことなど、この四年、一度もない」
息を呑んだ煌姫の頬をそっと撫で、朱夏は懸命に想いを伝える。
「其方が私を不誠実だと厭おうと、穢らわしいと嫌おうと、其方を離してやることはできぬ」
「……朱夏、さま」
煌姫の背を撫で、腰を引き寄せた。驚いたように肩を震わせる煌姫の頬に、朱夏は唇を押し当てた。
「其方と話したいことが、たくさんある。謝らねばならぬことも、な」
「……」
「まずは、私と並んで座ってくれぬか?」
長椅子にともに座ろうと、煌姫の手を引く。戸惑ったように視線を彷徨わせる煌姫であったが、素直に朱夏の隣に腰を下ろした。だが、昔のようにぴったり寄り添うことはせず、拳三つ分ほどの距離が空いている。
莉羅が淹れた薬草茶の香りが部屋に漂った。
卓に置かれた茶器を、煌姫が膝の上で手を握りしめたまま凝視している。
「これは、西領の薬草茶だ。近年、我が国で改良し交易品とした」
「……」
「それとも、其方は果実茶の方がよかったろうか」
ぴくり、と煌姫の指が震えた。己の言葉の何に反応したのかわからず、朱夏は黙って薬草茶に口をつけた。
茶器を卓に戻し、朱夏は隣の様子を窺った。じっと卓の上を見つめ、唇を引き結んでいる煌姫は、何を考えているのだろう。四年前ならば、煌姫の表情を見れば考えていることがある程度はわかったというのに。
失った時間の長さに朱夏も唇を噛む。
すっ、と煌姫の髪に手を伸ばしかけ、肩を震わせる様子に朱夏の動きが止まった。先ほどから、少しも視線が合わない。春の日だまりのように微笑んでいた煌姫の表情が、朱夏がこの部屋に足を踏み入れてからずっと固い。
溜息を漏らし、朱夏は頭を掻いた。その動きに再び煌姫が肩を跳ねさせる。
「……其方が、私の顔を見たくないのならば、ここへ来ぬ方がよいだろうか」
「っ」
瞳を見開いた煌姫が、思わずといったふうに朱夏を見た。ようやく薄桃色がこちらを向いたことに安堵し、朱夏は言葉を重ねる。
「私に、側室がいることが、子を成していたことが、其方には厭わしいのだろう?」
「……っ」
「其方は私の正室だ。どれほど私を嫌おうとも、ここから出してやることはできぬ。だが、其方が私に会いたくないのならば、顔を合わせぬようにすることはできる」
唇を噛み、朱夏を見つめる煌姫の瞳に再び涙が膜を張った。
「言い訳はせぬ。其方が不在の間、仕方ないこととはいえ他の女を迎えたのは事実だからな」
「……」
「このまま、この夏の宮に籠って秋穂たちと穏やかに過ごすことを望むか?」
正室の代わりは、舎利でも十分務められるだろう。すでに親王を産み、今また二人目を身籠っているのだ。重臣たちの理解は得られるだろう。
「……ひどい……」
零された呟きは掠れた声で、朱夏は聞き漏らすところであった。今後のことを考え始めていた朱夏は、慌てて煌姫に視線を戻す。
「煌?」
「朱夏さま、は……ひどい。ひどいわ」
「……何が酷い?」
流れる涙をそのままに、煌姫が「ひどい」と繰り返す。涙を拭おうと、朱夏の手が煌姫の頬に伸びた。だが、身を捩って避けられる。
「わたっ……わたくしのっ。わたくしだけのっ、朱夏さまであられたのに……っ」
両手で顔を覆った煌姫に、朱夏は返す言葉を持たなかった。舎利を迎えたことを知られれば、責められるだろうと覚悟はしていた。だが、煌姫がどうしてほしいのか、その望みが掴めない。
眉を下げた朱夏の背後から、秋穂が穏やかに声を掛けた。
「お方さま。あまり今上さまを困らせてはなりませんよ」
「……秋穂」
「貴方さまが、ご正室さまなのです。堂々としておいででなくては」
「だって……わたくし、どうしていいのか……」
朱夏に目線だけで詫び、秋穂が煌姫の前に回って膝をついた。そっと両手を煌姫の膝に置く。
「申し上げましたでしょう?今上さまは、ご政治的なご判断で、第二室さまをお迎えになられたのです。愛しておいでなのは、お方さまだけでございますよ」
その言葉に、煌姫の耳に舎利の話を入れたのが秋穂であると朱夏は悟った。鋭く睨む朱夏の視線に怯まず、秋穂が煌姫を宥め続ける。
「たとえあちらに御子がおいででも。これからお方さまとて、今上さまのご寵愛をいただいて、御子をお産みあそばすのです。そうなりましたなら、貴方さまが国母となられるのです。ご不安に思われることなど、何もないのですよ」
秋穂の言葉に朱夏は頭が痛くなる心地がした。それでは、煌姫のことを嫡出の子を産む道具と扱っているように聞こえるではないか。
「わた……わたくしは……殿方が、怖い」
秋穂への苛立ちを感じていた朱夏は、煌姫の呟きにはっと視線を戻した。
「まあ、何を仰せです」
「……殿方、は……あの方は、たくさんの女人を、侍らせておいでで……どっ、どこででもっ、肌を露わにして……っ」
両手で顔を覆ったままの煌姫の耳の先が、赤く染まるのが朱夏にもわかった。思わず煌姫の手を掴み、朱夏は己に視線を向けさせる。
「……朱夏さま?」
「あの方とは誰だ?」
「えっ?」
「どこで、男の肌など見た?」
頭に血が上っていると、朱夏にも自分でわかった。それでも、声が尖るのが止められない。何と情けないことかと自嘲しながら、朱夏は煌姫の体を腕の中に引き寄せる。
煌姫の膝の上から、秋穂の手を振り払った。




