弐佰弐拾伍
新緑に囲まれた夏の宮――。
烏を供に護衛を数名引き連れて、朱夏は久しぶりに白亜の建物を目にした。最後に見た時には、火災で燃える建物と、地に伏した烏、そして怯える侍女たちの姿があった。
復興の指示を出してはいたが、こうして朱夏自身が訪れるのは火災以来のことである。
朝早くに汐之を奥宮へと送り、その足で夏の宮へとやって来たのであった。
宮の入口に現れた秋穂の姿を認め、朱夏は深く呼吸して足を踏み出した。
拝礼する秋穂が、きらりと瞳を光らせた。
「ようこそお越しくださいました、今上さま」
「うむ。其方の請いに従い、今朝まで来るのを我慢したぞ。入っても構わぬな」
本来、秋穂の許可は必要ない。それでも、煌姫のために尽くす秋穂に敬意を払っての言葉であった。
「はい。お方さまは奥でお待ちでございます」
秋穂の言葉に、朱夏の胸がどくん、と跳ねた。背中を汗が伝う。緊張しているのだと、今更ながらに気づいた。
体の脇で拳を握り、朱夏は屋内に入るために沓を履き替えた。
早くなる鼓動を抑え、懐かしい廊下を進む。すぐ後ろを烏がつき従い、さらにその後から秋穂が体を揺らしてついてくる。煌姫の帰還を知り、少しずつ食事量が戻っているとの報告を受けていた。
最奥の扉が見えてきた。煌姫が夏の宮で与えられていた、女主人のための私室である。
額から流れる汗を拭い、朱夏は烏に扉を開けさせた。ふわり、と薫風の香りが漂う。
「……薫風を薫いたのか」
「お方さまが、今上さまを想われての香でございますから」
朱夏に追いついた秋穂が、自慢げに胸を張った。
一歩、朱夏は内に足を踏み入れた。
部屋の中央に置かれた長椅子。懐かしい薄茶色の髪をさらりと背に垂らし、記憶の中よりも大人になった女人がぼんやりと窓の外を眺めていた。朱夏の位置からでははっきりと確認できないが、それでもその瞳が薄桃色なのは見て取れた。
「……煌?」
震える声で名を呼べば、ぴくり、と細い肩が揺れた。ゆっくり、その顔が朱夏の方へと向けられる。
「……朱夏、さま……」
大きく見開かれた薄桃色の瞳が、陽光を受けて揺らめいている。みるみる内に涙が溜まっていく瞳から、朱夏は目を逸らせなかった。
一歩、朱夏の足が煌姫に近づく。ぽろり、と薄桃色の瞳から涙が零れた。
大股に長椅子へと歩み寄り、朱夏は煌姫の側に膝をついた。懐かしい瞳を、そっと見上げる。
「煌……あぁ、よく無事で……」
膝の上で握りしめられた拳に、朱夏は己の手を重ねた。びくり、と煌姫の体が揺れる。
「さあ、よく顔を見せておくれ。どこか痛いところや辛いところはないか?」
煌姫の手の甲を撫でながら、朱夏はその頬に手を伸ばそうとした。その手から逃れるように、煌姫が身を捩った。
「……煌?」
「お……お離しください」
「煌っ?」
何故、と問おうとして煌姫の体が小刻みに震えていることに、朱夏は気づいた。
「煌……私が、怖いか?」
「……っ」
頭を大きく振り、煌姫が朱夏から離れようと身動いだ。朱夏の手を振り払い、長椅子から立って逃げようとする。それを許さず、朱夏も立ち上がって煌姫の体を腕の中に引き寄せた。
折れてしまいそうに華奢な体ではあったが、朱夏の腕の中に収まったのは記憶の中の少女ではなかった。大人になった、朱夏の妻である。
「ぃや……っ、離し……っ」
「煌……何故」
眉を下げる朱夏に、煌姫がいやいやと首を振り続ける。大陸に渡っている間に、やはり何かあったのだろうか。朱夏に怯える煌姫の姿など、見たくはなかった。
守れなかったことを悔やむ朱夏の耳に、か細い声が届く。
「……わたっ、わたくし……いやっ。どうして、ご側室なんて……っ」
「っ!」
目を剥いた朱夏は、壁際に控える莉羅に鋭く視線を送った。昔から、煌姫の耳に余計な話を入れるのはあの侍女だと相場が決まっていた。
慌てたように胸の前で両手を振り、ぶんぶんと頭まで振る莉羅は蒼白である。彼女でないとしたら、誰が煌姫に舎利の話など聞かせたというのか。
「っ、お……御子さまもっ、おいでだと……っ」
「……煌」
朱夏の腕から逃れようと、煌姫が細い体で懸命にもがく。朱夏の胸に手を当て、力を込めて押しながら首を振っている。
「わたくし……わたくしだけと……っ、お、お約束……したのにっ」
「……」
「だから……っ、春香っ、春香とも別れて……戻って、きたのに……!」
涙の滲む声を聞いていられず、朱夏は煌姫の唇に乱暴に唇を重ねてしまった。
頭の奥で、卑怯な己を恥じる声が木霊した。




