弐佰弐拾肆
煌姫を乗せた輿が、静かに夏の宮へと入った。
その知らせが、執務室の朱夏に齎されたのは翌日の夕刻であった。
宮の入口まで汐之がつき添い、待機していた秋穂が煌姫を連れて宮内へと入っていったらしい。憔悴した様子の莉羅とともに。
がたりと音を立てて椅子から立ち上がり、すぐさま夏の宮へ向かおうとした朱夏を汐之が引き止めた。
「しばしお待ちを。まずはご報告をお聞きください」
「……聞こう」
立ったまま、朱夏は逸る気持ちを抑えて汐之を見上げた。
「夏の宮へは、明日になってからお越しいただきたいと、侍女長どのが」
「はっ?」
「今宵は長旅のお疲れを癒し、お心安らかにお過ごしいただきたい、と」
「……」
眉間に皺を寄せ、朱夏は腕を組んで汐之に尋ねる。
「煌の様子はどうであった?」
「それが……」
眉を下げた汐之に朱夏は首を傾げた。
「どうした?」
「夏煌丸から下りてこられたのは、煌姫さまだと思います」
「……思う?」
話が長くなりそうな気配に、朱夏は息を吐いて長椅子に座った。向かいに汐之も腰を下ろす。
輝山の大臣は、己の机で聞き耳を立てている。
「大陸からつき添ってこられた侍女どのが、薄絹で覆ってお姿を隠しておいででした。煌姫さまも扇でお顔を隠され、私に見えたのは薄茶色の髪だけでございました」
「……」
「お声を聞くことも叶わず、船着き場のすぐ近くで待機していた輿にすぐさまお乗りになられました。侍女どのがぴたりとお側につき、輿を出立させるよう急かされました」
つまり、汐之は煌姫の姿を確認することはできなかったということだ。
「では、莉羅の様子はどうであった?」
秋穂ほどではないにせよ、莉羅も煌姫に心酔している侍女の一人ではある。慣れない海へ出て、大陸まで迎えに行くほどの忠義の心がある。
「この上なく尊い御方にお仕えしているという、自負のようなものが顔に浮かんでおりましたな」
汐之の人を見る目は確かである。そう感じたのなら、莉羅がつき従っていた相手はやはり、煌姫本人であったろう。
「宿では何事もなく夜を越したか?」
「ええ。警護の者たちは宿の外に配置され、私だけが内に入ることを許されました。お食事は召し上がったようですが……お世話はすべて侍女どのが引き受けられ、やはりここでもお姿を見ることは叶わず」
「それで、朝になってそのまま出立したのか?」
朱夏の問いに頷き、汐之が報告を続ける。
「一刻も早く宮中へお入りになった方がよいと判断致しました。他の者を退け、侍女どのしかお側に置きたくないのならば、安全な宮中でお過ごしいただく方がよい、と」
「警護の者も近寄らせなかったのか?」
「煌姫さまのために、女人の武官も幾名か連れて行ったのですが。数歩離れたところまでしか寄らせていただけず、武官たちも困っておりましたな」
その言葉に朱夏は首を傾げた。あまり我儘を言う印象のない煌姫であるが、やはり長く故国を離れて不安な気持ちが大きいのであろうか。
「無事に夏の宮へとお戻しできて安堵いたしました。侍女長どのが間違いなく引き受けられたので、お姿が見られずとも、やはりご正室さまであったのだと思っております」
「うむ。ご苦労であったな」
汐之を労い、朱夏は烏に薬草茶を淹れさせる。気を張る道中であったろう汐之に、茶を勧めて己も茶器に口をつけた。
「輝山の大臣、湊刃の大臣」
薬草茶で喉を潤した朱夏は、唇を舐めて両大臣に声を掛けた。
「はっ」
「明日の朝、朕は夏の宮へ渡る。煌の様子次第で、朝議の場で正室が戻ったことを公表する」
「御意」
もう一口薬草茶を飲み、朱夏は息を吐いた。
「それと、まだここだけの話だが」
「はい」
「第二室が身籠った」
「っ!」
驚きに目を瞠ったのは汐之だけであった。輝山の大臣には、今朝の内に報告を済ませてある。
「それは……おめでとう存じます」
「うむ。だが、不安定な時期でもある。こちらも公表する時機を見極めねばならぬ」
「左様ですな。第二室さまのご様子は?」
気遣わしげな汐之の言葉に、朱夏の表情が緩んだ。
「二人目でもあるから、落ち着いてはいる。和沙もいることだしな。ただ……」
「はい」
「春明がむくれておる」
「はっ?」
朝早くに奥宮から来た知らせでは、悪阻の始まった舎利から構ってもらえず春明が癇癪を起こしているとのことであった。和沙が宥めているが、寝台に横になる舎利に近づこうとして止められ、むずがっているようだ。
朱夏の言葉に汐之が眉を下げて微笑んだ。
「これは……奥宮へのご機嫌伺いをお許しいただけますかな」
「そうだな……朕が夏の宮へ赴いている間、義父上である其方が舎利や春明の側についていてくれれば、心強い。輝山の大臣、よいか?」
視線を向けられた輝山の大臣は、朱夏の言葉に頷いて筆を手にした。
「奥宮への立ち入りの許可。今上さまの御名で書状をお作りしますか?」
「いや……書状を出すことはないと以前に伝えたからな。夏の宮へ行く前に、朕がともに奥宮へ連れて行こう」
「かしこまりました。では、明日は早朝より本宮へ参ります」
明日についての打ち合わせを終え、朱夏はほおっと息を吐き出した。
いよいよ、煌姫との再会の時が迫っていた――。




