弐佰弐拾参
四季の国に初夏の風が吹いた。
日中の気温が上がり始め、雨の日も増えだした頃、大港に夏煌丸が帰還した――。
執務室の中をうろうろと落ち着きなく歩き回り、長椅子に腰を下ろしかけては立ち上がる朱夏を、輝山の大臣が心配そうに見守っている。
汐之は夏煌丸の出迎えに大港へと赴いており、執務室の中には朱夏と輝山の大臣、壁際に控える烏の姿だけがあった。
「……そろそろ一行が戻る頃であろうか」
朱夏が零した呟きに、輝山の大臣の眉が上がる。朝から、すでに五度は同じことを口にしている朱夏であった。
「今上さま。煌姫さまを乗せた輿がともに戻るのです。湊刃の大臣が急かすことはありませんぞ」
「う、む……だが、煌は早く宮中に戻りたがるかもしれぬ。それなら、汐之とて……」
「今上さま。たとえ煌姫さまが望まれたとて、長の船旅を終えられたばかりの御身です。お体に障るようなことは、湊刃の大臣は致しませぬ」
ぴしゃりと言われ朱夏は口ごもった。輝山の大臣の言うことが正しいと、朱夏にもわかっているのだ。だが、四年という歳月を経て四季の国へ帰還した煌姫の顔を、早く見て安心したいという気持ちが抑えられなかった。
「道中で一泊し、御一行が戻られるのは明日の昼過ぎでございます」
「その一泊だが。やはり昨年の内に宿を整備するべきだったのではないか」
朱夏と両大臣の間で何度も話し合われたことを、再び口にする孫を輝山の大臣は溜息を堪えて見つめる。
「大港までの間に高級な宿屋など建ててしまっては、ここに高貴な御方がおいでだと知らしめることになります。煌姫さまのご帰還どころか、お国を離れていらしたことさえ秘するのですから、人の口に上るような可能性を作ってはなりませぬ」
腕を組み、長椅子に浅く腰掛けて朱夏は言い募る。
「朕が行幸の際に使う宿と、そういうことにしておけばよかったのではないか」
「仰々しく行列を仕立てて大港へ行かれることを、お厭いだったのは今上さまでございましょうに。行幸となると警護の者も大勢引き連れて行かねばなりませぬぞ」
「だが、民が使うような宿で、煌は安らげるであろうか」
とうとう輝山の大臣が特大の溜息を漏らした。まったくもって仕事になりはしない。
「今上さま。もう本日は奥宮へお戻りなさいませ」
烏が淹れた薬草茶を受け取っていた朱夏は、目を丸くして祖父を見やった。
「輝山の大臣?」
「そのように歩き回られては、こちらも気が散ります。煌姫さまがお戻りになるまで、特に急ぎのご決裁もないのですから。第二室さまと春明親王さまのお側で、ゆるりと過ごされませ」
一口薬草茶を飲み、朱夏は首を横に振った。
「いや、今日は……」
「今上さま?」
「さすがに、今宵第二室の側で過ごすのは、不誠実であろう?煌が戻るのだぞ?」
「……」
きっと、明日には煌姫が戻るとわかっていても、舎利は朱夏に不満など言わないだろう。ただいつものように、朱夏の側で微笑んで、春明を抱き上げて過ごすことになる。穏やかで優しい時間。
だからといって、舎利が傷つかないとは朱夏には思えなかった。煌姫が戻れば、夏の宮で過ごす時間が多くなることだろう。仕方のないことと飲み込んでくれる舎利に、せめて今夜くらいは、穏やかな時を与えてやりたかったのだ。
朱夏の話を聞き、輝山の大臣が顔を顰めた。
「入内なさった時点で、第二室さまもそのことはよく、わかっておいででございましょう。それでも、今上さまをお支えするために、こうして奥宮にいてくださるのですから。甘えてもよろしいのでは?」
「きっと舎利は許してくれるだろう。だが、朕が自身を許せなくなる」
目を伏せ、今朝も笑顔で送り出してくれた舎利の姿を思い浮かべる。
「それに、近頃体調が思わしくないようだ」
「それは聞いておりませんぞ。どのように?春明親王さまに移る病などではございませんな?」
瞳を光らせた輝山の大臣に、朱夏はゆるゆると首を振った。
「薬師を呼ぶように和沙に言いつけてある。念のため、春明は近寄らせないようにしてあるが」
言葉を切った朱夏は、母と離されて不満げな息子の顔を思い出して口元を緩めた。
「まったく。和沙がいなければ、奥宮は回らぬな」
「さすがは、湊刃の大臣の乳母君といったところですかな」
「違いない」
くすりと笑って、朱夏は執務のために気持ちを切り替えた。長椅子から立ち上がる。
「今上さま?」
「仕事をする。そして、今宵は籠宮で休む」
「……よろしいので?」
輝山の大臣の問いに朱夏は頷いた。
「舎利からも、病ではいけないから今宵は来てくれるなと言われている」
「左様でございますか」
「何事かあれば、知らせが来るだろう」
薬師と和沙を信じて任せることに決め、朱夏は執務机につき筆を手に取った。




