弐佰弐拾弐
本宮の東側に建てられている春の宮――。
宮中で最も早く朝日の光を受ける暖かな宮であり、建物を囲うように春の花々が植えられている。
春の華やかさを表すように乳白色の石で造られており、春生まれの帝一族の者が過ごす宮であった。
薄水色の衣と群青の袴を身に着け、和沙と手を繋いで歩く春明は、きょろきょろと周囲に忙しなく視線を走らせていた。初めて見るものに瞳を輝かせ、指を差してはあれは何かと和沙に尋ねている。
「かじゅ!ありぇ。お……おじ?」
「まあまあ。親王さま。あちらは春の宮をお守りする武官の方でございますよ」
「う……む、むかん?」
背後から聞こえる春明と和沙の会話に口元を緩め、朱夏は春の宮の入口で足を止めた。警護の武官が拝礼する。
「異常はないか?」
「はっ。不審な者の姿も見かけず、常と変わらず穏やかでございます」
「ご苦労。いずれ我が息子が暮らす宮であるからな。警備に励め」
満足げに頷いた朱夏が、春明を振り返った。
「春明。こちらへ」
「あいっ」
和沙に手を引かれたまま、春明が朱夏の足元へと寄ってくる。目線を合わせるようにしゃがんでやり、朱夏は春の宮の建物を指す。
「春明。ここは、いずれ其方が暮らす春の宮だ」
「めぇの?」
「そうだ。父は夏生まれであったから夏の宮で過ごしたが。其方は春生まれの親王。この春の宮が、成人するまでの住まいとなる」
「うー?」
頬に手を当て首を傾げながら、春明が傍らに立つ舎利を見上げた。
「はは?めぇといっちょ?」
その問いに、舎利が困ったように眉を下げた。春明が春の宮に移ったとしても、帝の室である舎利は奥宮に暮らすままとなる。
「母上は奥宮におられるままだ。其方だけが、春の宮に移ることとなる」
「……やっ」
「無論、今すぐというわけではない。それに、乳母や他の侍女もともに移る。案ずることはないぞ」
「やっ!はは。いっちょ!」
朱夏はふむ、と頷き春明の体を抱きかかえて立ち上がった。視界が高くなったことに、むくれた顔のまま春明の瞳が丸くなる。
「ともに暮らせずとも、其方が会いたくなったなら、いつでも母上にはお会いできる」
「……や」
「男子たる者、寂しくて泣くなどと格好の悪いところを、母上に見せるものではないぞ」
朱夏の腕の中で、春明が暴れ始める。手足をばたばたと動かし、隣に立つ舎利に手を伸ばそうとした。
「はは!はは!」
瞳に涙を溜め始めた息子を見て、舎利がその小さな頭にそっと手を伸ばす。ゆっくりと撫でてやるが、一度浮かんだ涙はなかなか治まらない。
「春明。まだ先のことですよ。其方は今上さまの一の親王なのです。こうして春の宮を賜われるのは、今上さまが其方を尊重してくださっている証」
「やぁ!ははっ」
とうとうぽろりと零れた涙に、舎利も泣きたくなってしまった。だが、己が産んだのは帝の御子なのだ。いつまでもともにいたいと、そのような我儘は許されない。
幼い泣き声が響き渡り、困りきった若い両親に和沙が助けるように声を掛けた。
「まあまあ、お二方とも。親王さまにはまだお早いのではありませんか」
「いや、しかしだな……」
「さあさあ、親王さま。こちらへ。和沙がお抱き申し上げますから、ご機嫌を直してくださいませ」
両腕を広げた和沙に、朱夏は躊躇いながら我が子を渡した。悲鳴のような甲高い泣き声を上げる春明の背を、和沙があやすように優しく叩く。
「大丈夫でございますよ、親王さま。驚かれましたねぇ」
「う゛ぅー。やぁーーーっ!」
「ええ、ええ。今上さまもお方さまも、親王さまがお嫌いになったわけではございませんよ」
「ひっ!うぅー!」
宥める和沙の言葉に、朱夏は目を丸くした。
「嫌い?私たちが、春明を?」
「ふぅーっ。やぁーっ!」
「はいはい。親王さま、大丈夫でございます。今上さまもお方さまも、勿論和沙も。親王さまのことが大好きでございますよ」
ぽん、ぽん、と和沙が背を叩いてやる内に、少しずつ春明の気持ちも穏やかに戻ってきたようである。
「うぅー……ふぅー」
泣きわめいていた春明が、ぐずるような声に落ち着きだした。涙で顔中を濡らしたまま、和沙の腕の中から縋るように両親を見つめる。
「和沙?春明は、何が気に入らなかったのだ?」
いつの間にか手を握り合っている主君夫婦を見やり、和沙が春明をあやしたまま答える。
「いきなりのことでございましたからねぇ。親王さまは、お二方から奥宮を追い出されると思われてしまったのですよ」
その言葉に、朱夏と舎利はともに目を見開いた。
「これまで奥宮でずっとお過ごしでしたから。いつかお出になることも、まだご存知なかったでございましょう?驚かれたのですよ」
「うぅー……ははぁ。ちちぃ」
「それは……済まぬことをした」
舎利と顔を見合わせた後、朱夏は春明の頭をそっと撫でた。
「春明。驚かせて済まぬ。父も母も、其方のことが大好きで大切だ」
「……うぅ。ほんちょ?」
いまだ涙の溜まった瞳で、春明が真っ直ぐに朱夏を見上げた。
「本当だ。其方が大切で、大好きで。父とて、其方とずっとともにいたいのだぞ」
「春明。わたくしも、其方が大好きですよ。愛しています」
両親から頭や頬を撫でられ、春明はようやく安心したように目を閉じたのである。




