弐佰弐拾
気候が暖かく落ち着き、朱夏は舎利と春明を伴って藤の離宮を訪れた。
長く伏せっている夏勢院の正室美紘が、生家である輝山家へと移動する日であった。
藤の離宮の入口に、輝山家からやって来た輿が停められている。眠ったままの美紘が横になって乗れるように、通常のものよりも横長に造られた特注の輿であった。
輝山の大臣も本宮から駆けつけ、薬師の指示で運ばれてくる移動できる寝台をじっと見つめている。寝台の周りには几帳が立てられ、侍女たちが美紘の姿を隠しながら几帳を少しずつ寝台に合わせて動かしていた。
見たことのない光景と物々しい警護の数に圧倒されたのか、春明が舎利の裳裾をきゅっと握る。
薬師の押す車椅子で離宮の入口まで出てきた夏勢院が、美紘を運ぶ行列を静かに見つめていた。
輿の内に眠る美紘が寝台ごと運び入れられ、つき従う芙月がともに入って扉が閉められた。ゆっくりと、眠る美紘の体に障らないように輿が持ち上げられる。
輿の隣に立った輝山の大臣が、夏勢院に深く一礼して輿を出立させた。
入内の際の華々しい行列ではなく、宮中から生家へ下がるための一行であるため、派手に飾りつけてはいなかった。それでも、華やかに着飾ることが好きな美紘のために、輿の扉には季節の花々が飾られている。
遠くなっていく輿をじっと見送った後、朱夏は父に顔を向けた。
「父上、お体に障りませんか?離宮の内へ戻られませ」
「……う、む」
「じじ!」
薬師が夏勢院の車椅子を押そうとして、響いた幼い声に動きを止めた。
舎利の側で大人しくしていた春明が、夏勢院に向かって駆けてくるところであった。
祖父の足元まで懸命に足を動かし、指先に握りしめていた藤の花を夏勢院に差し出す。
「……ん?」
「じじ。おあにゃ!あえゆ!」
力いっぱい握っていたためか、花びらは少し萎れてしまっていた。表宮の藤棚から朱夏が一房切り分け、春明に持たせていたものである。
「父上の、見舞いだそうですよ」
「……あぁ。ふ……じ」
「どうしても、己で持参すると聞かなくて」
苦笑しながら、朱夏は春明を抱え上げて夏勢院に手が届く距離へと近づけた。
「んんー……こえ、いや?」
腕を動かせない夏勢院では花を受け取れず、春明が泣きそうな顔になった。自分からの見舞いの花を嫌がられたのかと、不安そうである。
春明の頭をそっと撫で、朱夏が傍らに立つ薬師に尋ねた。
「父上のお膝に、春明が座っても障りはないだろうか」
「この車椅子では安定致しませんので、離宮の内で長椅子にお座りになられてからなら」
「そうか。髪に藤を飾ることは?」
「えっ!……失礼致しました。それは問題ございません」
厳つい顔つきの夏勢院の髪に、華やかな藤の花を飾ることに薬師は驚いたようだ。だが、すぐに表情を取り繕って許可を出した。
「春明。祖父上は其方からの見舞いを受け取ってくださる。そら、お耳の横に、その花を飾っていただこう」
「おあにゃ……かじゃゆ?」
「そうだ。父が手伝ってやろう」
春明の小さな手に己の手を添え、夏勢院の耳元に藤の花を挿すのを手助けする。
「よくお似合いですよ」
「しゅてき!きえいねぇ」
自分からの見舞いの花を飾った祖父の姿にすっかり気をよくし、春明が朱夏の腕の中でにこにこと笑った。
不自由な動きで眉間に皺を寄せた夏勢院が、それでも春明に礼の言葉を伝えようとする。
「ぁ……りが、と……しゅ……めぃ」
「ん!」
やり取りを微笑んで見守っていた薬師が、車椅子を押すための持ち手に手を掛けた。
「それでは、離宮内へ戻りましょう」
「ああ」
春明を抱いたまま、朱夏は舎利を振り返った。
「其方も、沢利」
「はい」
差し出された手にそっと手を重ね、朱夏とともに舎利も藤の離宮の内へと足を踏み入れた。
上機嫌の春明は、朱夏の腕の中から離宮の内を興味深げに見回している。以前訪れた時には、汐之の肩に乗ってやって来た。高さの違う視界で見る景色は、春明の記憶とはきっと違ったものだろう。
輝山の大臣には三日の休みを与えてある。早く本宮へ戻らなければならない朱夏だったが、人の減った藤の離宮に残る父の慰めに少しでもなるように、春明との時間を作ってやりたかった。




