弐佰拾漆
二日後に熱の下がった春明親王が、床から起き上がることを許されたのはさらに二日後の朝であった。
この間執務を休み、朱夏は奥宮に居続けたのである。心配した舎利に表宮へ戻るように言われても、顔色の悪い舎利のことが気になって政どころではなかった。
窓から差し込む朝日の眩しさに目を開けられずにいた朱夏の耳に、元気な声が響いてくる。
「あー!ちち!はは!はよっ」
「……ん」
寝返りを打ち、微睡みの中にいる朱夏の頬にぺたりと小さく柔らかいものが触れた。
「ちち!まんま!」
「……ん、春明?……春明っ?」
薄く目を開けた朱夏は、目の前で笑う息子の姿にがばりと身を起こした。朱夏の腹の上に乗り上げようとしていた春明の小さな体が、ころんと寝台の上で転がる。
「むー。ちち!めっ!」
不満を訴える春明の体を抱き上げ、その頬に朱夏は頬を寄せた。
いつもと変わらない、温かく柔らかい肌触りである。
「熱が下がったのだな。よかった」
「よろしゅうございました」
隣で寝ていた舎利も、二人の様子に微笑んで身を起こした。
春明の体を朱夏の寝台の上に乗せてやったらしい浪嶺が、口元を緩めている。
「すっかりお具合もよくなられ、今朝はお腹が空いて目を覚まされたようです」
浪嶺の言葉に笑みを零し、朱夏は春明を抱き上げたまま寝台から下りた。
「春明、気分はどうだ?喉はもう痛くないか?」
「ん。ないない!」
手足をぱたぱたと動かす春明に頷き、朱夏は小さな体を床へ下ろしてやった。運ばれてきた手水の盥に手をつけ、顔を洗い口をゆすぐ。
息子の様子に安堵して微笑む舎利も、衝立の向こう側で着替えを済ませて出てきた。
入内してどれだけ経とうとも、こうして朱夏の目がある時には肌を見せないように着替えている。群青の衣と薄緑の裳で、爽やかな装いであった。
和沙が運ばれてきた朝餉の膳を手際よく卓に並べ、春明に向かって両腕を広げてみせた。
「さあさあ、親王さま。あちらのお部屋で朝餉に致しましょうね」
「やっ。めぇも!」
朱夏の袴の裾に抱きつき、春明が頭を大きく振った。
「春明?どうした?」
これまで朝餉は別に取っていたのだ。いつもならば、素直に和沙とともに隣室へと移るというのに。
首を傾げた朱夏に、和沙が苦笑を向けた。
「まあまあ。お父君とお母君にお会いになれず、ご不安だったのですねぇ」
うんうんと頷き、和沙が目を細めて朱夏を見た。
「今上さま、どうなされますか?今朝は、親王さまと朝餉を召し上がりますか?」
帝一族に生まれた者は、食事の際の作法を習うまで親とともに膳を囲むことは本来ない。春明の養育のためには、朝餉を別に取るべきではあったが、しがみつく病み上がりの息子を振り払うことも朱夏にはできなかった。
しばらく考え、朱夏は春明の体を抱き上げて長椅子に腰を下ろした。隣に春明を座らせてやる。
「今朝は、特別だ。せっかく元気になったのだからな。ともに朝餉にしよう」
「よろしいの?」
春明を挟んで朱夏の反対側に腰掛けた舎利が、首を傾げて朱夏に尋ねた。
「四日もの間一人で隣室に隔離されて、寂しかったであろう。誰の目もないこの奥宮で、家族水入らずで朝餉にすることくらい、何の問題もない」
朱夏の言葉に嬉しそうに微笑み、舎利は春明の頭をそっと撫でた。
「よかったですね、春明」
「ん!」
ぱたぱたと足を動かす春明の膝に、舎利は浪嶺から手渡された手巾をかけてやった。もう一枚を、襟元を覆うようにかけ首の後ろで端を結んでやる。装束を汚さないためのものであった。
その様子を不思議そうに眺め、朱夏は納得したように頷いた。
「そうか。幼い頃は、こうして布を当てるものなのだな」
「今上さまは、これまで幼い子どもと接したことはございませんの?」
春明のための器に水を注いでやりながら、舎利が尋ねる。侍女や給仕の者も控えてはいるが、舎利は基本的に春明の世話を自身で焼きたがる。朱夏がそれを咎めないし、和沙や浪嶺も見守っているので、この私室ではそれが許されていた。
「そうだな……昔、従妹が生まれた頃は赤子に接する機会もあったが……」
「お従妹さま……」
「弟も……幼い頃はあまり会うことがなかったし」
幼子用の匙を春明の手に握らせ、舎利が眉を下げて朱夏に謝った。
「申し訳ございませぬ」
「舎利?」
「余計なことをお聞き致しましたわ。さ、お召し上がりになって」
卓の上の膳を指され、朱夏は舎利の気遣いに感謝しながら親子での一時を和やかに楽しんだ。




