弐佰拾陸
夕刻から春明が熱を出したとの知らせに、朱夏は執務を早々に切り上げて奥宮へと渡った。
薬師が忙しなく立ち歩く舎利の居室へと駆け込む。
「春明はっ?」
飛び込んできた朱夏に、うろうろと歩き回っていた舎利がはっと視線を向けた。駆け寄ってくる舎利の体を抱き留め、宥めるように背を撫でる。
「舎利?春明はどうした?」
「と、隣の部屋に、薬師も……」
震える声の舎利に、朱夏は気を引きしめた。不安がる舎利の頭をそっと撫で、隣室へと足を運ぼうとする。
その朱夏の前に、和沙が立ち塞がった。
「今上さま、なりません。今は薬師が診察しているところでございますから。どうぞこちらで、お方さまとお待ちを」
「和沙。其方の目から見て春明はどうだ?……毒か?」
密やかな朱夏の声に、舎利の肩が跳ねる。唇を震わせる舎利を安心させるように、和沙が微笑んだ。
「いいえ。恐らく、近頃の冷え込みでお風邪を召したのでしょう。今上さまやお方さまにお移ししてはなりませんから、隣室でお休みいただいているのですわ」
和沙の言葉に、朱夏の手から力が抜けた。
「さあさあ、お二方とも。お茶を淹れますからお掛けなさいませ」
指された長椅子をしばらく見つめ、朱夏は溜息を吐いて舎利の腰を引き寄せた。そのまま、長椅子へと誘う。
「今上さま……?」
「経験豊富な和沙の見立てを信じよう。何にせよ、薬師の診断が出るまでは、我らにできることはない」
心配そうに隣室へと続く扉を見つめ、舎利は朱夏に腰を引かれるまま長椅子へと移った。
和沙が淹れた薬草茶に口をつけ、朱夏は息を吐く。
「まこと風邪であれば、それでよいのだが」
朱夏の呟きに、和沙が大袈裟に目を瞠ってみせた。
「あのくらいのお年の頃には、少しのことで熱を出されることはよくあることでございますよ」
「そういうものか?」
「そうですとも。お立場上、ご心配が尽きないのは仕方のないことです。ですけどね、一番ご不安なのは親王さまなのですから。ご両親はどんと構えておいででなくてはいけませんよ」
腰に手を置いて胸を反らす和沙に、舎利の表情がようやく緩んだ。朱夏に倣って、薬草茶に口をつける。
「初めてのことで、どうしていいのかわからなくて……」
「昨夜の雪景色に、はしゃいでおいででしたからねぇ」
「外に出たのかっ?」
目を剥いた朱夏に首を振り、和沙がくすくすと笑う。
「いいえ。いつものように窓から外を眺めておいでだったんですけど。昨日は常より大雪でございましたでしょう?地が見えぬほど積もった雪が、月明かりに輝くさまを長い間見ておいでだったんですのよ」
風邪を引かないようにと、冬の間の春明の外出は制限されていた。その代わりというように、窓から景色を眺めるのが好きな春明である。
「窓辺は冷えますから。お上衣もお着せしていたんですが、動きづらくなって嫌がられて……。わたくしの見立てが甘うございましたわ。申し訳ございませぬ」
眉を下げた和沙に、朱夏も苦笑を浮かべた。動きを制限されてむずかる息子の姿が目に浮かぶようであった。
「昨夜も奥宮へ渡ってくればよかったな。そうすれば、窓辺から春明を引き離してやれたのに」
「ご公務で遅くなられましたでしょう?遅い時間にこちらへお渡りになるのは、それこそお体を冷やしてしまいますわ」
膝の上で握られた朱夏の手を、舎利がそっと包んだ。表宮から籠宮の寝所へは内廊を通ってすぐの距離だが、奥宮へ来るとなると冷え込む回廊を通ってこなければならない。
薬草茶で体を温めていると、隣室との扉が開き浪嶺が薬師とともに姿を現した。
「春明は?」
立ち上がりかけた朱夏は、舎利に手を握られていることを思い出して座り直した。
長椅子の側まで歩いてきた奥宮の薬師が、朱夏に向かって拝礼し口を開く。
「この寒さでお風邪を召されたようでございます。少し喉も腫れ、咳もしておいでです。煎じ薬をご用意致しました。熱冷ましもございますので、これを日に三度煎じてお飲ませになってください」
「お食事は?」
和沙の問いに、薬師が頷く。
「食欲が落ちるやもしれませぬ。召し上がるのを嫌がられるようでしたら、果物をすり潰したものや温かい粥などをご用意なさってください」
「朕や第二室が会うことはできるか?」
朱夏に尋ねられた薬師が、申し訳なさそうに眉を下げた。
「せめて熱が下がられるまでは、お二方は離れておいでの方がよろしいかと存じます」
「……そうか」
「熱が下がり、喉の痛みや咳が落ち着かれたならば、お会いになられてもよろしゅうございます。食欲も戻るようならば、床上げもなさって構いません」
薬師の説明に頷き、朱夏は和沙に声を掛けた。
「春明が落ち着くまで、朕は奥宮へ来ぬ方がよいか?」
「いえ、こうしてお部屋を隔てておりますので、お方さまのためにもお顔を見せていただけるとよいかと思いますわ」
「わかった。
舎利、今宵はここで休む。其方も不安で気が休まらぬだろうが、薬師も和沙たちもいる」
「……ええ」
薬師の説明を聞いている内に震えの治まった舎利の肩を、朱夏はそっと抱き寄せた。




