弐佰拾弐
舎利と春明に護衛をつけて奥宮へ帰し、朱夏は汐之とともに表宮の執務室へと戻ってきた。
留守居をしていた輝山の大臣が二人を出迎える。
「夏勢院さまのご様子は、いかがでしたかな」
長椅子に座り、烏が淹れた薬草茶に口をつけて朱夏は息を吐いた。一時期闇市に流れ品薄であった果実茶は、秋の始めに戻った櫻花楼の船が少し持ち帰っていた。しかし、夏煌丸で交易した品ではないため、櫻花楼にその取引の権利がある。先の騒動で買い占めた重臣たちの家には、今回櫻花楼は売らない判断をしたようだった。
「随分、お顔の色がよかった。お言葉も、少しずつ回復されている」
「ようございました」
「……母上を、輝山に戻してもよいそうだ」
朱夏の言葉に束の間目を閉じ、小さく頷いた輝山の大臣は瞳を開けた。
「承知致しました。ともに戻るは芙月のみでよろしいのですかな」
「藤の離宮に仕えているのは、元からあの離宮に仕えるために雇われた者たちであろう?輝山から母上について行ったのは、芙月だけだ」
「かしこまりました。では、そのように」
机の上の紙に何か書きつけ、輝山の大臣は吐息を漏らした。大臣にとっては先帝に入内させた娘である。政争に巻き込まれることがあるかもしれないと、わかっていたのに守ってやれなかった娘でもある。
残りの余生を、意識が戻らずとも生家で穏やかに過ごしてもらいたい親心が、つい顔に出ていた。
「……第二室と春明を、お目通りさせることが叶った」
話題を変えた朱夏の思惑に、輝山の大臣も表情を緩めて乗る。
「春明親王さまは、お健やかにお育ちですかな」
「うむ。道中、足が疲れたらしくてな。床に座り込んで動かないのを、湊刃の大臣の肩に乗せたら大喜びしていた」
「ほう、湊刃の大臣の肩に」
驚いたように見上げられ、汐之が肩を竦めてみせた。
「親王さまはいまだ一つ半。両肩に乗せても動き回れる程度の重さでございますよ」
「両肩には乗せるな。どちらかを落とす」
「おや。もうお一人御子がお生まれになれば、可能だと思って楽しみにしているのですがね」
笑いながら己の席に着いた汐之に、輝山の大臣が呆れたような視線を向ける。
「其方が頑強なのはわかっておるが。親王さまは尊い御身。あまり危ういことをしてくれるな」
「無論のことです。ただ、春明親王さまは大層お喜びでしたよ」
己の肩ではしゃいでいた孫を思い出したのか、汐之の口元に柔らかい笑みが浮かんだ。
二人の会話を聞いていた朱夏が、難しく眉間に皺を寄せた。気づいた烏が近寄って膝をつく。
「今上さま、どうなさいましたか」
「ああ、いや……」
密やかな声に、両大臣も会話をやめてこちらを向いた。朱夏が答えるまで待つ構えに、ふ、と息を吐く。
「いや、湊刃の大臣が申したろう?もう一人、子をと」
「これはご無礼を。急かしたわけではございませんよ。ただの軽口でございます」
慌てたように手を振る汐之に、朱夏は顎に手を当てて答える。
「もう一人、子を成した方がよいのだろうか」
零された言葉は、朝議の場で自信に満ち溢れた帝の声ではなかった。側室との間にこのまま子を設け続けてもよいのかという、生真面目な青年の葛藤であった。
朱夏自身は正室の子ではあったが、たった一人の弟は側室腹であった。夏勢院の子はその二人のみ。そして弟は北領の外れの寺院で、出家の身である。帝一族の男子は、春明が誕生するまで朱夏のみとなってしまっていたのだ。
このまま親王が春明だけというのは、甚だ不安である。煌姫を推す一派が、どこかに潜んでいるかもしれない状況で、しかもその煌姫は不在なのだ。帝の唯一の子である春明親王に、刺客でも向けられたならと思うと朱夏は恐ろしかった。
弟親王でもいれば、少しはこの不安もなくなるのであろうか。
「御子は、何人おいででもよい」
汐之の静かな声に、朱夏ははっと我に返った。
「……湊刃の大臣?」
「御子が春明親王さまお一人でも、他に幾人設けられようとも、我らがお護りすればよいだけのことです。今上さまは、難しくお考えすぎですな」
「左様。重臣たちはご正室腹の御子を是非などと、うるさく言ってくるでしょうが。彼らは何にせよ不満を言わねば気が済まぬのです。放っておきなされ」
達観しきったような祖父の言葉に、ようやく朱夏の口元に笑みが浮かぶ。
薬草茶を飲み干して頭を振った。
「とは言え、先々帝のように艶福家などと言われるのは真っ平だ。朕には正室と、第二室がいればそれでよい。子が授かったなら、喜びとともに迎えるだけのことだな」
「お一人くらいは、同腹のご兄弟がおられても、春明親王さまにも刺激となってよろしいでしょうな」
汐之の言葉に苦笑して、朱夏は立ち上がった。
「いずれにせよ、まだ先の話だ。済まぬな。少し気弱になった」
己の執務机に向かいながら、朱夏は小さく謝る。
両大臣は、頭を下げただけで何も言わなかった。




