弐佰拾壱
夏勢院が暮らす藤の離宮。
奥の間に通された朱夏一行は、車椅子に座った夏勢院と対面した。
車椅子を初めて見た舎利は一瞬目を丸くしていたが、すぐに微笑みを浮かべて濃紺の扇で口元を隠す。
汐之の肩に座る春明の姿に、夏勢院の側に控える薬師の瞳も見開かれたが、すっと頭を下げた。
「父上のお見舞いに、妻と子を連れて参った。父上のお加減はいかがか」
「はっ。本日はお顔の色もよく、お食事も余さず召し上がりました」
舌に麻痺の残る夏勢院の食事は、野菜や果物をすりつぶした流動食が主である。調子のよい時には、くたくたに煮込んだ粥なども口にできるらしい。食感の柔らかい菓子を喜ぶ時もあると、朱夏にも報告されていた。
父の前まで舎利の手を取って誘い、朱夏は深く頭を下げた。
「父上。ご紹介が遅れまして申し訳ございませぬ。第二室の沢利です。私に初めての子を与えてくれました」
朱夏の言葉を受けて、舎利が深く腰を落とした。
「ぅ、む」
短い許しの言葉に、舎利は目を伏せたまま口を開く。
「お初にお目もじ致します。第二室を務めます、沢利と申します。ご挨拶が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます」
舎利の出自は、夏勢院にも伏せられている。この場は公の場として、沢利を名乗ることとなっていた。
「そく……さい、か」
「ありがとう存じます。今上さまにも奥宮の皆にもよくしていただき、こうして健やかに過ごしております」
夏勢院の目が満足げに細められたのを見て取って、朱夏は背後を振り返った。
汐之が肩から春明を下ろそうとして、嫌がられているところであった。肩の上という高い位置が、随分気に入ったらしい。
「湊刃の大臣。そのままでよい」
「はっ」
春明を肩に乗せたまま、汐之が夏勢院の前まで歩き膝をついた。視界の高さが変わったことに、春明の瞳がきょとんと丸くなる。
「父上。我が一の親王、春明でございます」
「っ!めぇ!」
名を呼ばれたことに気づいた春明が、嬉しそうに己を指差した。
「そ……か。よき、こだ」
「春明。其方の祖父上さまだ」
「……じじ?」
首を傾げた春明の視線が、汐之と夏勢院の間を行き来する。そう言えば、ここへ来る道中汐之からもそう自己紹介されたのだったと苦笑し、朱夏は頷いた。
「そうだ。其方が今肩に座っているのは湊刃の祖父上。こちらは、帝一族の祖父上だ」
「むー……じじ。に?」
眉間に皺を寄せ、短い指を二本立てて考え込む様子を見せる春明に、その場の空気が和む。
「こちらへ。祖父上に、もっとよく顔を見ていただこう」
汐之の肩から春明の体を受け取り、朱夏は夏勢院に孫の顔を見せた。
「……うむ。よ、き、おのこ、だ」
「じじ?いたいたい?」
朱夏の腕の中から短い手が夏勢院に向かって伸びる。健康な者に囲まれて育つ暮らしの中、車椅子に座りやつれた体の夏勢院は、痛々しく映ったのだろう。言葉も上手く出てこない様子が、心配になったらしい。
「いたいたい。ないない。めぇ、ないない!」
夏勢院の額に小さな手の平が添えられ、ぺちぺちと音を立てている。
息子の動きの意味が何となくしか掴めず、朱夏は眉を下げて壁際に控える和沙に視線を送った。しかし、先帝の御前である。奥宮にいる間のように、気安く寄ってきて話すわけにもいかない。和沙の身分は、それほど高くないのである。
だが、思わぬところから助け舟が出された。
「院さま。お羨ましいことですな。春明親王さまが、院さまのお痛みを取り除こうとしておられる」
それまで黙って控えていた汐之である。いつの間にか、朱夏の背後に立って夏勢院の顔を覗き込んでいた。
「こうして再びお目にかかれて、光栄にございます。今上さまと縁を結ぶことができ、春明親王さまの祖父という、得難い地位もいただきました。まこと、人生とはどうなるかわからぬものですなあ」
豪快に笑う汐之に、夏勢院の目尻もゆるりと下がった。顔の筋肉も、随分と動かせるようになってきたようである。
「思いの外お健やかなようで、安堵致しましたぞ」
「……しぉ、の……しゅか、たの……む」
「無論でございます。私にとっても、恐れ多くも義理の息子となられました。全身全霊、お支え致します」
拝礼し、汐之は朱夏に会話を譲る。いまだ夏勢院の額に置かれた手をそっと取り、春明の体を朱夏から引き受けて舎利とともに一歩下がった。
父の手を握り、朱夏は口を開いた。
「父上。母上付きの芙月から、母上を輝山家へ帰したいとの嘆願が届いております」
「……」
「このまま藤の離宮に留まっても、ご容態が変わらないのならば、ご生家でゆるりと過ごしていただきたい、と」
朱夏の母美紘の意識が戻ることは、もうないだろうと薬師に言われている。それならば、あまり思い入れのないであろう離宮よりも、生まれ育った輝山家に戻してやるのがいいかもしれなかった。
「父上のお許しがあれば、輝山の大臣は構わないと言っておりました。どうなさいますか」
「……よ、い」
夏勢院にとっても、政略で結ばれた正室という相手でしかなかった。多くの側室を抱えていた夏勢院には、美紘だけを己の側に縛りつけるつもりはない。
「承知しました。では、そのように手配致します」
「すま、ぬ」
父の言葉に微笑み、朱夏はその手を離した。
「また参ります。本日は、幼子がおりましたので騒がしく、申し訳ございませぬ」
「かま、わぬ……また……こい」
「はい。それでは、御前失礼致します」
舎利と汐之が夏勢院に頭を下げるのを不思議そうに見上げる春明を伴い、朱夏たちは藤の離宮を後にしたのだった。




