弐佰拾
濃紺の衣にきっちりと身を包み、群青の袴を穿いた春明親王が、和沙に手を引かれて短い歩幅で上機嫌に歩いていく。こうして手を繋がれていれば、一人でもよちよちと歩けるようになってきた冬の入口である。
朱夏を先頭に一歩後ろを舎利が歩き、その後ろから春明と和沙がついて来ている。さらに見舞い籠を持った浪嶺が続き、二十名近くの護衛がつき従っていた。護衛団の先頭には汐之の姿もある。
帝一家による、夏勢院への見舞いの行列であった。
「親王さま、お寒くはございませんか?」
「ない!」
「ようございました。冷えて参りましたなら、こちらの肩掛けを羽織りましょうね」
後ろから聞こえる春明と和沙の会話に口元を緩めながら、朱夏は舎利に尋ねた。
「緊張しているか?」
「……はい」
少し表情の固い舎利を見やり、朱夏は宥めるように言葉を重ねる。
「父上はそれほど恐ろしい方ではない」
「ええ。初めてお目通りが叶いますので、やはりどうしても……」
「手を」
舎利に向けて朱夏は手を差し出した。
「今上さま?」
「其方の緊張が、少しでも解れるように、な」
その言葉にふわりと微笑み、舎利が朱夏の手に己の手をそっと乗せた。
「親王さま?どうなさいました?」
和沙の焦ったような声に、朱夏たちの視線が向けられる。
回廊の真ん中で立ち止まり、春明がじっと床を見つめていた。舎利と顔を見合わせて、朱夏が和沙に声を掛ける。
「いかがした?」
「それが、急に立ち止まられて……」
「春明、どうしたのだ?」
「うー……」
何事か不満を訴えるように唸った後、春明は床に座り込む。
一行の進みが完全に止まってしまった。父との約束の刻限まではまだ猶予があるが、ここで足止めを食らうと遅れてしまう。
息子の元へと近寄ろうとした朱夏に、涼やかな声が掛けられた。
「今上さま。私が親王さまをお抱き申し上げてもよろしいですかな」
護衛の先頭を歩いていた汐之である。目尻を下げ、しゃがみ込んで春明に視線を合わせる。
大柄な大人の男が両腕を広げて近づいてきたことに驚いたのか、春明の小さな手が和沙の裳の裾をぎゅっと握る。普段奥宮で接するのは乳母や侍女たち、父である朱夏のみなのだ。数えるほどしか会ったことのない汐之の顔がわからずとも、無理はなかった。
春明の前で膝をつき、汐之は深く頭を垂れた後人好きのする笑みを浮かべた。
「春明親王さま、ご無礼を致しました。私は湊刃の汐之。お父君の右の大臣を務めております」
「……?」
きょとんとする春明に、汐之はくすりと笑いを漏らした。
「恐れ多いことに、春明親王さまの、祖父でございます。じじ、とでもお呼びいただければ嬉しく思います」
その言葉に吹き出しかけて、朱夏は何とか堪えた。帝の右の大臣を捕まえて「じじ」と呼べるのは、この世に春明親王ただ一人であろう。
「……じじ?」
「はい。春明さまの、じじでございます」
「めぇの?」
まだ上手く己の名を言えない春明は、自身を指して「めぇ」と呼ぶ。汐之の笑みにつられて口元を緩めた春明を、危なげなく抱え上げて大きく広い肩に乗せてやった。
「きゃあっ」
これまでの誰に抱き上げられた時よりも高くなった視界に、春明の機嫌が一気に上向いた。驚いたように汐之の髪を握りしめながら、懸命に周囲を見回そうとしている。
「このまま、夏勢院さまの御前まで参りましょうか」
「重くはないか?」
「何の。親王さまの御身くらい、私一人で護ってご覧にいれましょう」
片目を瞑った汐之に笑い、朱夏は舎利の手を取ったまま再び歩き始めた。
後ろから、ご機嫌な幼い笑い声が追いかけてくる。
「結局、春明は何故立ち止まったのだろうな?」
「疲れたのではないでしょうか」
舎利の答えに朱夏は目を見開く。
「疲れた?」
「奥宮からここまで、己の足で歩くと言い張って。和沙や浪嶺が抱いて行くと言っても嫌がったのです。けれど、思ったよりも遠くまで歩いてきて足が疲れてしまった」
「ふむ」
「でも、意地を張ったのでしょう。自分で歩くと言ったのですもの。自分で言ったことは、きちんとわかっていましてよ」
くすくすと笑いながら説明する舎利に、そういうものかと朱夏も頷く。
「幼くとも、矜持があるのだな」
「今上さまの御子ですもの」
どうにも擽ったくなった朱夏は、そのまま黙って歩き続けた。
藤の離宮は、もう目の前であった。




