弐佰漆
奥宮で朝を迎えた朱夏は、頬にぺたぺたと触れる感触でうっすらと瞼を開けた。
覗き込む群青色が、くるくると動いていた。
「あぅー」
「……春明?」
舎利の寝台で寝ていたはずが、何故ここに春明がいるのかわからず、一瞬戸惑う。
きょとんとした朱夏に、同じようにきょとんとした表情を返す春明を見つめて舎利がくすりと笑いを漏らした。
その声に、朱夏の視線が寝台の脇に移る。
「舎利?」
「おはようございます、今上さま」
「あぁ。おはよう」
ゆっくりと身を起こした朱夏の膝に、春明が体ごと寄ってきた。
「春明?」
「あよっ。ちち!」
「ん……?」
父しか聞き取れず、朱夏は首を傾げながら春明を抱え上げた。
「ふふっ。春明が、今上さまに朝のご挨拶を申し上げておりますわ」
柔らかな舎利の言葉に、ようやく朱夏は微笑む。
「そうか。おはよう、春明」
「ん。あよっ」
朱夏の腕の中、ご機嫌そうに両手をぱちぱちと打ち鳴らす春明を抱いたまま、朱夏は寝台から立ち上がった。舎利が息子の体を受け取る。
浪嶺が運んできた手水の盥で、顔を拭き口をゆすいだ。
「お酒は抜けまして?昨夜は随分召し上がって来られたようですけれど」
舎利の腰に手を置き、そっと長椅子へ促しながら朱夏は頷いた。
「うん。ぐっすり眠れたな」
「よろしゅうございました」
朝日を受けて微笑む舎利の頬に、朱夏は唇を押し当てた。
「うっ、今上さまっ」
いまだにこうして初心な反応を見せる舎利を、まさか誰も遊郭の女であったなどとは思うまい。
舎利の髪を撫でていると、その腕の中から不満を告げる声が上がった。
「やっ!はは。めぇの!」
ばたばたと手足を動かす春明が、懸命に舎利の気を引こうとしている。
「まあまあ、春明。お行儀が悪くてよ」
「やっ!」
ぷっくりと頬を膨らませた春明が、ますます暴れる。舎利の肌に傷をつけるのではないかと心配になり、朱夏は慌てて己の腕の中に息子の体を引き寄せた。
「ちち。やっ」
「ふむ。父は嫌か?だが、母上の腕で暴れては、怪我をさせてしまうやもしれぬぞ。男子たるもの、女人は守らねば」
「やっ!」
近頃短い単語で意思表示をできるようになってきた春明であるが、常にともに過ごしているわけではない朱夏にはまだまだ難解であった。
眉を下げた朱夏に、朝餉の膳を運んできた和沙が歩み寄る。
「あらあらまあまあ。親王さま、ご機嫌斜めでございますか?」
「かじゅ!」
「はいはい。和沙でございますよ。さあ、お父君とお母君は朝餉の刻限でございますからね。和沙がお抱き申し上げましょうね」
恰幅のよい腕を広げられ、朱夏は安堵の息を吐いて息子の小さな体を引き渡した。
「さあさあ、親王さま。あちらのお部屋で、和沙と朝餉に致しましょうね」
「うー。まんま!」
「ええ、そうでございますよ。今日の朝餉は何が出てくるでしょうねぇ?親王さまのお好きなものだとよろしいですねぇ」
「ぱ……んー。ぱっぱ!」
てきぱきと春明をあやしながら隣室へと下がっていく和沙の背を、朱夏は呆然と見送った。
「まあまあ。親王さまは山菜がお好きでございますねぇ。きっと今朝も出て参りますよ」
ぱたんと閉じられた扉をしばし見やり、朱夏は吐息を漏らして長椅子に腰を下ろした。
「相変わらず、和沙は凄いな。何故春明の言っていることが正確にわかる?」
薬草茶を淹れながら、舎利がくすくす笑う。
「場数が違うのではないでしょうか」
「場数……」
「わたくしとて、春明の話すことのすべてはわかりませんわ。和沙や乳母に助けてもらいながら、やっと会話ができますの」
薬草茶に口をつけ、朱夏は小さく笑った。
「今朝は唱洪の薬草茶か」
「ええ。櫻花楼が流通を握っていた薬草茶ですけれど。近頃宮中でも、重臣の方々が好まれるとか?」
「凛慈の実演が効いたのであろうな。今では競うように買いつけ、なかなか品薄とか」
「まあ。では、次に櫻花楼の船が大陸へ渡る際には、またたくさん仕入れて戻ってくるのかしら」
和やかな会話を続けながら、朝餉の時間はゆっくりと過ぎていく。
「櫻花楼の船は来月旅立つ予定だ。何か大陸から取り寄せたいものがあれば、頼んでおくぞ」
朱夏の言葉に、舎利は頬に手を当ててしばらく考え込んだ。
「そう、ですわね……では、あまり我が国では見かけないような、化粧品など手に入りますか?」
朱夏は目を瞠った。これまで、こうして舎利が何か物を欲しがったことはなかったからだ。
「其方が使うのか?」
「いいえ。いつも珍しい品を献上してくれる櫻花楼に、わたくしからも返礼品を贈りたいと思いまして」
「……」
窓の外に視線をやり、遠くを見つめるような瞳で舎利は続ける。
「楼主どのは珍しい品など見飽きておいででしょうけれど。わたくしからの品ならば、あの楼で働く者たちに行き渡るのではないかと、思いまして」
「済まぬ」
「えっ?」
舎利の視線が朱夏に戻った。眉を下げた朱夏に、舎利が首を傾げる。
「それは、できぬ」
「……」
「表の店に送るにしてもだ。其方と櫻花楼の繋がりなど、献上品を受け取る第二室と返礼の書状を受け取る店主としてしか、認めてやることができない。済まぬ」
頭を下げた朱夏に、舎利は柔らかく微笑んだ。
「謝られるようなことではございませんわ。でも、そうですわね。では、春明の養育に役立ちそうな何かを、仕入れてきてくれるでしょうか」
話題を変えた舎利の声が寂しげに響き、朱夏はその体を引き寄せてきつく抱きしめた。




