弐佰肆
夏煌丸が五度目の航海へ向けて大港を出航したのは、夏も終わり秋が近づく過ごしやすい気候の頃であった。
湊刃家総出で船旅の訓練を受けた侍女莉羅が、青い顔をしながらも煌姫の世話のための多くの道具を抱えて乗り込んでいったと、汐之からの報告に朱夏は安堵の息を漏らした。
それから四ヶ月。四季の国では新しい年に入っていた。
奥宮の舎利の私室で、乳母の叫び声が響く。
「しっ、親王さまっ!そちらはいけませんっ」
ちょうど扉を開けたところであった朱夏は、床を這う息子と必死に追いかける乳母の姿に目を丸くした。
静かに近づいてきた浪嶺が、音を立てずに扉を閉めた。
「……何事だ?」
珍しく笑いを堪えているような顔で、浪嶺が春明に視線を向けた。
「その……親王さまはお方さまのお膝の上で寛いでおいでだったのですが」
「舎利の膝?」
長椅子から腰を浮かせ、困ったように舎利が春明を見守っている。伸ばしかけた手が、うろうろと宙を彷徨っていた。
「午睡のお時間でしたから。乳母どのが親王さまをお抱きしようとされたのですが、嫌がられまして」
「うん?」
「お暴れになられて危なかったので、乳母どのが手を離された隙に、ああして床に逃げておしまいになって」
近頃の春明は、つかまり立ちや伝い歩きができるようになってきていた。その分行動範囲が広がり、世話をする者たちは目を離せない油断できない時期に入っていた。
床に両手両足をついてずるずると這いながら、乳母の手を逃れようとしている春明に近づき、朱夏は苦笑しながらその体を抱き上げた。
父の接近に気づいてもいなかった春明は驚きに目を見張り、朱夏の腕の中で暴れようとする。
「……やっ!」
「おや、ご機嫌斜めかな。父の腕の中は嫌か?」
「やっ、や……あぅ?ち、ち……?」
そこでようやく己を抱き上げるのが誰か認識したのか、春明の動きが止まった。
大きな瞳でじっと朱夏の顔を見上げ、くるくると群青色の光を揺らめかせている。
「春明、父に挨拶してくれぬのか?」
「……あー。あぅー……ちち!」
「忘れられていないようで何よりだ」
我が子を腕に抱いたまま、額に汗を浮かべる乳母を労い、朱夏は長椅子に腰を下ろした。安堵したように、隣に舎利も座る。
「今上さま、おいでなされませ」
「うむ。春明は午睡の刻限か?いつもどこで寝ている?」
舎利の頬にそっと唇を押し当て、真っ赤になった妻の表情に朱夏の口元が緩んだ。
「うっ、今上さまっ。このような明るい内から……お渡りが、お早いですわね?」
言葉の途中で、常よりも早い時間に朱夏が訪れたことに気づき、舎利が首を傾げた。
「新年の宴について、両大臣と打ち合わせしていたのだが。せっかくの新しい年だ。奥宮で其方らとともに過ごせと追い出されてしまった」
「まあ」
口元を手で隠してころころと笑う舎利に、不満げな声が掛けられた。
「むぅー。はは!ははっ!」
朱夏の腕の中で、己にも意識を向けろとの抗議である。
「あら、まあ。春明のことを忘れてなどいませんよ」
ふふっと笑い、舎利が頬を撫でたことに満足げに目を細めた春明に、朱夏は苦笑した。
「父から母との時間を奪おうとは、不遜なことだな」
「ま、今上さままで何を仰せですの。息子と張り合うおつもり?」
片手で春明を撫で、もう片方の手で朱夏の頬を撫でる舎利に、朱夏は息子とそっくりな満足げな笑みを浮かべる。
「さあ、春明。午睡の時間ですよ。乳母や侍女たちを困らせてはなりません」
汗を拭いた乳母が再び長椅子に近寄り、春明を朱夏から受け取ろうとする。と、途端に顔を歪めてばたばたと短い手足を動かした。
「やー!ねむねむ、ない!」
「ふむ。まだ眠たくないということか?午睡の時間を取らねばどうなる?」
朱夏の問いに、乳母は困惑したような表情を浮かべる。
「日々決まったお時間に午睡を取っておいでですから、一日飛ばしたくらいでは悪影響はございません。今宵のお休みでしっかりと睡眠をお取りになれればよいのです」
「成る程」
乳母の答えに頷き、朱夏は腕の中の息子を覗き込んだ。
「眠たくないならば、このまま父とともにいるか?其方は退屈やもしれぬぞ」
「やっ!」
「ふむ、嫌か。母の膝に乗っていたと聞いたが」
朱夏の視線を受けて舎利が頷く。
「昼餉も終わって、わたくしの膝で少しうとうととしておりましたの。それで乳母が寝室に運ぼうとしたのですが」
「其方から引き離されることを嫌がったということだな」
息子の背をぽんぽんと叩き、朱夏は乳母に視線を戻した。
「春明が眠くなるまで、このままこうしていよう。その間に、其方は少し休むがよい」
隈の浮き出た乳母に休息を与え、朱夏は春明を膝に乗せたまま薬草茶に口をつけた。和沙が淹れて運んできたものである。
和沙の姿を見つけ、春明が朱夏の腕の中から手を伸ばす。
「あー!かじゅ、かじゅ!」
「まあまあ、親王さま。和沙をお呼びですか。嬉しいこと」
朱夏の手から難なく春明の体を受け取り、あやすように揺らしてやると、上機嫌な笑い声が聞こえてきた。
「凄いな」
きゃっきゃっと笑う息子と和沙の姿に目を丸くしていると、笑いを堪えた舎利が隣から囁いてきた。
「朱夏さま、大丈夫ですわ」
「えっ?」
「あのまま和沙が揺すっていれば、その内眠気に負けて目が閉じてゆきます」
「そうなのか?」
驚きでさらに目を瞠った朱夏の耳に、子守唄のような和沙の声が届いた。




