佰玖拾漆
予定の月に戻らなかった大船が、二月遅れで大港に着いたとの報告が朱夏の元に届けられた。
すでに季節は夏の最中となっており、朱夏は二十二歳になっていた。
大港へと向かった汐之から増援を依頼する知らせが戻り、宮護隊から小隊を走らせた朱夏は執務室で落ち着かずに歩き回っている。己の机に向かう輝山の大臣も、難しく眉間に皺を寄せていた。
執務机の上に投げ出された汐之からの知らせによれば、築岳が捕縛された妙葵とともに戻ったという。
とうとう、煌姫を拐かした妙葵が四季の国に戻ったのである。実に二年の歳月が流れていた。冷静に対峙できる自信が朱夏にはなかった。
「今上さま、お掛けになって茶でも召し上がられませ」
輝山の大臣の声にはっとし、朱夏は頭を振って長椅子へと掛けた。執務どころではない。
「湊刃の大臣が戻るのは、早くとも明日でございます。妙葵を引っ立ててくるのならば、時がかかるやもしれませぬ」
「妙葵を馬に乗せぬためか?」
「ええ。都までの道を歩かせるなら、三日はかかるでしょう。もしや、湊刃の大臣だけでも先に戻るかもしれませぬが、妙葵から目を離すことはないでしょう」
輝山の大臣の言葉に頷き、朱夏は溜息を零した。
汐之の知らせでは、煌姫については何も書かれていなかった。書状で煌姫の名を出すのを避けたためか、或いは大船には乗っていなかったのか。
「朕も大港へ行けばよかったのか」
「何を仰せです。帝がそう度々都を空けるものではございません」
輝山の大臣の小言を上の空で聞き、朱夏はぼんやりと薬草茶に口をつけた。
話題を変えるためか、輝山の大臣が明るい声を出した。
「春明親王さまの、最近のご様子はいかがですかな」
「……うん、そうだな……えっ?」
空返事をした後、朱夏ははっと輝山の大臣に視線を向けた。目尻を下げた祖父の瞳とぶつかる。
「済まぬ。考え事をしていた。今何と?」
「春明親王さまは、お健やかにお過ごしですかな?」
繰り返された問いかけに、朱夏は茶器を卓に置いて顎に手をやった。
「寝台の上でな、和沙や浪嶺が支えながら座れるようになった」
「それは大変なご成長ですな」
好々爺然とした表情を浮かべた輝山の大臣に、朱夏も微笑む。
「子の成長は早いものなのだな。それに、随分体の重みも増えてきた」
「それは喜ばしいですな」
ふくふくと笑い、輝山の大臣が席を立って長椅子の向かいへと腰を下ろした。
「まだ舎利や乳母の乳で過ごすことがほとんどだが、そろそろ少しずつ、野菜や果物をすりつぶしたものを食し始めてもよいそうだ」
「成る程。そう言えば、今上さまがお生まれになった時も、ご生誕から半年を数える頃には秋穂どのがそのような手配をされておいででしたな」
「そうなのか?」
目を丸くした朱夏に、輝山の大臣は烏が淹れた薬草茶を含みながら首肯する。
「身分も男女も関係なく、赤子の成長というものは皆そういうものなのでしょう」
「そろそろ、春の宮へ移す支度をさせるべきか?」
朱夏が赤子であった際には、乳母であった秋穂を始めとした侍女たちに囲まれて、早くから夏の宮に移っていたはずである。物心ついた頃には、すでに夏の宮で過ごしていた。
腕を組み、輝山の大臣が唸り声を上げた。
「輝山の大臣?」
「もうしばらく、様子を見るのがよろしいかもしれませぬ」
「どういうことだ?」
朱夏は身を乗り出した。必ず守ると誓った舎利と春明のためである。経験豊富な祖父に何か懸念事項があるのなら、きちんと聞いておきたかった。
「これから、妙葵を裁き、ご正室さまもお戻りになるでしょう」
「うむ」
「再び、宮中が激動に包まれるやもしれませぬ。警護の整った奥宮から、春の宮へと親王さまをお移しするのは、平静な世になってからでも遅くはございませぬ」
「春の宮では、春明の身が危険、か?」
朱夏の問いに、輝山の大臣は首を横に振った。
「わかりかねます。わからないことが、怖いのです」
「……」
「春明親王さまのご誕生は、思いの外喜びをもって宮中で受け入れられました。ですが、ご正室さまを待ち続けている一派もいるはずです」
祝宴での様子を思い返し、朱夏は首をひねる。
「皆、好意的に春明を迎えていたように思うが」
「はい。ですが、例えば。秋穂どのが、親王さまのことをどう思っておいでか、掴みかねております」
「……っ」
目を見開いた朱夏に、輝山の大臣は重々しく告げる。
「ご正室さまがお産みになる御子こそ正統なお世継ぎと、過激な行動に出る者がいるやもしれませぬ。人手の少ない春の宮では、完全にお護りできるかわかりませぬ」
「奥宮ならば、護衛の武官や隠密に護られて過ごせる、ということか」
「いかにも。妙葵を裁き、煌姫さまが無事にお戻りになり、貴方さまの隣に並び立たれてこそ、第二室さまや春明親王さまもご安全というものです」
きっぱりと言い切った輝山の大臣に、朱夏は了承の言葉を返すことしかできなかった。




