佰玖拾参
宴席を抜けた朱夏は、少し酔いの回った心地よさで奥宮を目指した。
護衛はついて来るが、側近くには相変わらず烏だけである。
「今上さま、お足元がふらついておいでですが」
気遣わしげな声に笑いを漏らし、朱夏は上機嫌に己の足で歩く。
「今日くらいは、酔いに任せていてもよいだろう?」
「それは……」
「明日から、また忙しくなる。子が誕生した浮ついた気持ちは、今日までとする」
何も答えない烏をちらりと見やって、朱夏は奥宮の黒門を抜けた。烏の供はここまでである。
舎利の居室の前で、扉を守る武官に訪れを告げ扉を開けさせた。
ふわりと香る香の香りに混じって、乳飲み子特有の甘い匂いも漂ってきた。
寝台に起き上がり、枕を背に当てた舎利が和沙と談笑している。
「気分はどうだ、舎利」
春明親王は舎利の寝台の隣に用意された、赤子用の寝台で眠っていた。近寄ろうとした朱夏に、立ち上がった和沙が首を振る。
「まあまあ、今上さま。先にお湯をお使いくださいませな」
「うん?」
「お酒臭うございますよ。宴席の汚れを、親王さまに移さないでくださいまし」
ぴしゃりと言われ、朱夏は己の姿を見下ろして苦笑した。酒と料理の匂い。確かにこのまま赤子に触れるのは、あまりよくないのだろう。
寝台から困ったような舎利の声が掛かる。
「和沙。何もそんなに目くじら立てずとも……」
「なりません。お方さまのお体にも障ります」
母のような祖母のような和沙にそう言い切られてしまっては、舎利にも返す言葉はない。
諦めたように肩を竦め、朱夏は踵を返した。
「汗と汚れを流してくる。眠ければ、眠ってしまってよいから」
「はい」
微笑んで答える舎利に頷き、朱夏は奥宮にある帝のための湯殿へと足を向けた。
汗を流してさっぱりとした朱夏は、肌触りのよい絹の夜着を纏って舎利の私室へと戻った。
赤子の顔を眺めていたらしい舎利が、頭を下げて礼をしようとするのを制して近づく。
「よい。楽にしていよ」
春明の頬をそっと指先でつつき、朱夏は寝台の端に腰を下ろした。
「よく眠っておるな」
「お抱きになりませんの?」
「落としてしまいそうで怖い」
ふふっと笑い、舎利が側に控える浪嶺に目配せを送った。
頷いた浪嶺が、乳母に親王を抱かせ隣室へと下がっていく。夜泣きの始まった春明が側で寝ていては、舎利が休まらないだろうという和沙の指示であった。
「気分はどうだ?」
「皆によくしてもらっていますから、あたしは平気です」
そう答えながらも眉を下げる舎利の表情に、朱夏は首を傾げた。白い頬に指を沿わせる。
「どうした?」
「いえ……」
「舎利」
二人きりになった私室の中、静寂が場を包んだ。
じっと群青の瞳を見つめて待っていると、ふう、と息を吐き出した舎利が口を開く。
「贅沢な悩みさ」
「贅沢?」
「あたしは、お貴族さまの暮らしってやつに慣れていないから。お腹を痛めて産んだ子が、他の……乳母から乳をもらっているのを見るのが、不思議っていうか」
舎利の手を握り、朱夏はそのまま話を続けさせた。
「慣れなきゃいけないって、わかってるんです。それに、胸が張って痛い時には、あたしもお乳をやれるから。全然触れ合いがないってわけじゃないし」
「民の間では、子が生まれたなら母君がずっと世話をするものなのか?」
「ええ。裕福な商家とかだったなら、乳母を雇うこともあるかもしれないけど。少なくとも、あたしがこれまで生きてきた世界じゃあ、赤ん坊には母親が乳をやって育てるものだったから」
握られた手に己の手を重ね、舎利は微笑む。
「だから。これからは、こうして二人でいる時にも、言葉遣いとかきちんとした方がいいかなって」
「何故?」
「油断したら、しゅん……親王さまの前でも、素が出てしまうかもしれない。母親がこんな蓮っ葉に喋ってちゃあ、養育によくないじゃないですか」
我が子の呼び方を途中で改めた舎利に、朱夏は優しく答える。
「だが、春明のことを春明と呼ぶのは、構わないぞ。其方は母君なのだ」
「けど……」
「私の母上も父上も、公の場でなければ私を名で呼んでくださった。奥宮にいる間や、これから与えられる春の宮では春明と、そう呼べばよい」
舎利の髪を撫で、朱夏は彼女の不安が少しでも取り除かれるようにと願う。
「言葉遣いについては、其方の好きにするとよい。素でいてくれれば嬉しいが、其方の立場も重くなった。己を律すると言うのならば、其方の意思を尊重しよう」
「……そんなに、甘やかしてはいけませんわ」
「先に私を甘やかしたのは、其方であろうに」
ふふっと笑い、朱夏は舎利の体を寝台に横たえてやった。
「さあ。夜も更けてきた。そろそろ休むとよい」
「朱夏さまは、どうなさるの?」
「共寝をしてもよいのなら、其方の寝台で休みたいが」
勿論、と朱夏は舎利の耳元で続ける。
「其方の体に障るから、触れ合ったりはせぬ。安心致せ」
「しゅ、朱夏さま……」
真っ赤になった舎利の頬を愛おしそうに撫で、頷いてもらえたのを確かめた朱夏は寝台にともに横になった。




