佰玖拾弐
その日、国中が歓喜に湧いた。
四季の国を統べる朱夏帝に、待望の第一子が誕生したことが発表されたのだ。
宮廷から民へと祝い酒が振る舞われ、表宮の大内殿でも盛大な祝宴が催された。
春明と名づけられた春生まれの親王は、奥宮の母君の元で健やかに過ごしている。
生誕七日を祝う宴の席で、帝の御座に座る朱夏の元へ、重臣たちが次々と酒を注ぎにやって来る。
左右に輝山と湊刃の大臣を従え、鷹揚に盃を傾ける朱夏の姿に、離れた下座にいる人々が囁き合う。
「いやはや、入内してわずか一年の内に、ご懐妊ご出産とは」
「信頼厚い湊刃の大臣の娘御。ご寵愛が深くいらっしゃいますな。まったく羨ましい」
「今上帝さまのあの幸せそうなご尊顔をご覧あれ。第二室さまご本人も、大層魅力的な御方なのでしょうな」
日頃宮廷に仕える文官たちや、盛大な式典のために地方からやって来た下位の貴族たちである。
普段口にすることの叶わない上等な酒に顔を赤らめ、機嫌よく噂話に花を咲かせていた。
「いずれ春明親王さまのお披露目が開かれれば、第二室さまの麗しいお姿を拝することができますかな」
「しかしご正室さまが何もお気持ちを表しておいででないのが、気にかかりますな」
「どうやら病に伏せっておいでのようですが。こうした宴の席にもお出ましにならぬとは、案じられます」
ひそひそと交わされる会話に、別の声が割り込んだ。
「いまだお若いご正室さまですから。第二室さまに先を越されたと、不快に思われているのでは?」
「どうですかなあ。確かに御子を授かるにはまだ幼いでしょうが」
「帝一族の正統な姫君。そのような品のないことを、仰せになるでしょうか」
酒の席というものは、徐々に下世話な方向へと話が流れていくものである。
帝と直接挨拶をすることのない中流以下の貴族や文官たちは、聞かれていないのをいいことに様々に語り合う。
「しかし今上帝さまも、ご側室がお一人では心許ない。もう二、三人お迎えになられてもよいですのになあ」
「いや、それが……旧くから仕える重臣の方々が、娘御を差し向けたそうですが、すべて突っ撥ねられたとか」
「何と。今上帝さまとてまだお若いというのに、第二室さまだけでよろしいのか?」
「左様。御子が他にもおられねば、後々お困りでしょう」
少しずつ、会話の輪が広がっていた。
大内殿の入口に近い下座とはいえ、酒の勢いもあって声はだんだんと大きくなっている。
「今は御子がお生まれになったばかりですが。いずれは他の娘御もお迎えになり、高貴なお血筋の御子を増やしていただきたいものですなあ」
「左様左様。お若い今上帝さまに、我らが手ほどきして差し上げるべきですかな」
「はっはっは。それはよいですな。どれ、一つ私めが、女人を口説くよき言葉など……」
「そうか。それは興味深いな」
突如背後から聞こえた声に、機嫌よく話していた貴族たちが振り返った。ここからがよいところなのにと、眉間に皺が寄っている。
貴族たちの瞳に映し出されたのは、盃を手に微笑む朱夏の姿であった。
一気に酔いが醒め、噂話に興じていた貴族たちの顔色が蒼白になっていく。がたがたと、歯の根が合わぬ者もいた。
首を傾げ、笑みを浮かべたままの朱夏が口を開く。
「ある程度の挨拶を受けたゆえな。後は無礼講と、常日頃あまり話さぬ其方らの元へ来たのだが」
「ひえっ……き、今上帝さま」
「面白い話をしていたな?続きを聞かせてくれぬか」
集まって輪になって話していた彼らの隣の椅子に、朱夏はどっしりと腰を下ろした。
立ち去ることも無礼にあたり、かといって下世話な話をこのまま聞かせるのも不敬になる気がする。どうにも身動きできなくなった男たちであった。
「そら、もっと飲むがよい。朕が手ずから注いでやる。光栄であろう?」
卓に置かれた酒瓶を手に、朱夏が貴族たちの空いた盃へと酒を注ぐ。あまりの恐れ多さに、酒を注がれた男は飲み干せばいいのか気を失えばいいのかわからなくなった。
「其方は、東領の者だな?近頃はどうだ?」
「はっ、その……いえ」
「朕は都を離れられぬゆえ、こうして地方から集まった其方たちの話を聞いてみたい」
その隣の男の盃にも酒を注いでやりながら、朱夏は続けた。
「何。祝いの席だ。多少羽目を外すくらいのこと、大目に見てやろう」
「は……恐れ多く、かたじけなく……」
「だが、朕の妻に向けて、下世話な想像を働かせることは許さぬ。他の女をあてがおうなどという企みも、朕は許さぬ。それは覚えておくがよい」
「ははっ。申し訳もございませぬっ!」
その場に集った男たちが深く頭を下げた姿に頷き、朱夏は己の盃を口に運んだ。
「さあ。各地の話を聞かせてくれ」
地方に住まう者たちは、朱夏帝の懐の深さに感じ入り、請われるままに各領の話を語って聞かせたのであった。




