佰玖拾壱
産台に横たわったままの舎利の汗を、和沙が丁寧に拭いていた。
生まれた赤子は産婆が産湯で清めており、血で汚れたはずの白布は朱夏の目につく前にすべて取り払われている。
ふらふらと産台に歩み寄り、瞳を閉じている舎利にそっと声を掛けた。
「……舎利?」
その声にゆっくりと瞼を開け、舎利の群青色の瞳が朱夏に向いたことに安堵の息を零す。
「……しゅか、さま」
「よい、そのまま寝ていろ」
身動いだ舎利の頬に手を添え、その瞳を見つめる。
「よく頑張ったな。私の子を産んでくれて、ありがとう」
「御子、は……」
「今お湯をお使いでございますよ。湊刃の大臣がお支度なさった産着を纏って、じきにこちらへおいでになります」
舎利の背から安心させるように和沙が声を掛けた。
「体は辛くないか?気分はどうだ?」
「……いえ、わたくし、は……安心して……」
舎利の頬を伝った涙をそっと親指で拭い、朱夏は前髪を撫でてやった。
「其方も子も無事であったこと、何より喜ばしく思う」
「……はい」
「この後は、どうすればよい?」
身を清めた赤子に産着を着せている和沙に尋ねる。真っ白な布に包まれた赤子が、朱夏の元へと連れて来られた。
「まずは、親王さまにお目通りを」
赤子の顔がよく見えるように、和沙が角度を変えて朱夏に差し出した。
「私と舎利の子か。よく生まれてきてくれた。……皺くちゃだな?」
微笑みかけた朱夏が、首を傾げて呟く。その言葉に笑いを漏らしたのは、和沙だけではなかった。その場に詰めていた薬師や産婆たちも、苦笑しながら朱夏を温かく見つめている。
「目は開かぬのか?」
ぷっくりと膨らんだ頬に、朱夏は指先で触れてみた。顔中が皺で埋まっており、瞳の色が判別できないのだ。
「数日もすれば、しっかりとお開きになりますよ。ひとまず、初めの乳をお方さまからいただかなくてはなりません」
「ちっ、乳……!?」
和沙の言葉に赤面し、慌てて頬から離そうとした朱夏の指の先が、赤子の唇に触れた。
ちゅう、と吸われ朱夏の動きが止まる。柔らかすぎるその感触に、少しでも動いたなら傷をつけてしまいそうだった。
困り果てて和沙を見やった朱夏に、小さな笑いが返ってくる。
「あらあらまあまあ。お乳と勘違いなさいましたかねえ。さあさあ、親王さま。母君はこちらでございますよ」
朱夏の指からさっさと赤子の口を離し、和沙が舎利の元へと赤子を連れていく。
「さあ、お方さま」
「……ええ」
朱夏と和沙のやり取りを微笑んで見つめていた舎利が、白装束の胸元をはだけようとした。
はっとして、朱夏は舎利に背を向けた。不思議そうな声が追いかけてくる。
「今上さま?」
「すっ、済まぬっ。見ないようにしておくからっ」
耳の先が熱くなるのを感じて、朱夏はきつく目を閉じた。呆れたような声が、和沙から飛んでくる。
「まあまあ。何を恥じらっておいでなのです」
今更、という心の声まで聞こえてきそうな響きであった。
「そっ、それはそれだ!」
赤くなった顔を誤魔化そうと、朱夏は閉じた目元を腕で覆った。
くすくすと笑いながら、初めての乳やりを終えた舎利が装束を整えたと告げられて、朱夏はようやく産台に顔を向けた。
脇に置かれた赤子用の寝台に、満腹になったらしい赤子が寝かされている。まだ熱い耳を、手で扇ぎながら舎利の側に立った。
産台の上に投げ出された舎利の手を、そっと握る。
「疲れたであろう?もう休むか?」
陣痛が始まったのは今朝早くのことであった。すでに日は沈みかけている。ほぼ一日中、舎利は産室に籠っていたことになる。執務を放り出してきた朱夏も同じことであったが。
「ふふっ」
「舎利?」
「今上さまは、わたくしを気遣ってばかり。今上さまこそ、お仕事を投げ出して、両大臣に叱られるのではなくて?」
「構わん。この一大事に執務室になどいられぬ」
片方の手で舎利の前髪を撫でながら、傍らに立つ和沙を見やった。
「舎利はこのまま、回復していくのか?いつ起き上がれるようになる?」
「人によりますが。十日ほどは横になっておいでがよろしゅうございます。滋養のある薬膳をご用意させますわ」
「その後はご体調を見ながら、一月ほどで床上げとなります。お早く回復なさる方もいれば、時がかかる御方もおいでです。こればかりは、第二室さまのご様子を見ながら慎重に決めていくしかございません」
薬師の説明に頷き、朱夏は舎利に視線を戻した。
三人の会話を聞きながらも、うとうとと微睡み始めたようだ。
「朕は表宮へ戻る。第二室をゆっくり休ませてやるように」
その声にはっと覚醒し、舎利が申し訳なさそうな声を出す。
「あ……申し訳……」
「よいから。今宵また来る。しっかり体を労ってくれ」
舎利の額にそっと口づけを落とし、朱夏は和沙たちに後を任せて産室を出ていった。




