佰玖拾
月が変わり、春の花々が咲き誇る暖かな風が吹く頃――。
奥宮の一室は産室へと様変わりしていた。
白い一色で彩られた室内に、薬師や産婆たちが入れ替わり立ち代わり入ってくる。
奥に設えられた産台に横たわった舎利が、荒い呼吸を繰り返していた。
その背をさするのは、真っ白な装束に身を包んだ和沙の温かい手であった。
「お方さま、もうじきでございますよ。ゆっくり息を吸ってくださいませ」
「え、ええ……ふぅ、はあ……っ」
「隣室に今上さまも控えておいでですからね。踏ん張りどころでございます」
額に浮かんだ汗を浪嶺が手巾で拭い、産婆の指示に従って湯を張った盥を下女から受け取る。
いかに夫といえども、産室に男が立ち入ることは許されない。
陣痛が始まったと知らせを受けた朱夏は、汗だくになりながら表宮から駆けつけたが、扉前で仁王立ちする和沙に隣室へと追いやられたのである。
曰く、本当ならば表宮でお待ちいただきたいところである。
曰く、執務室においででも、心ここにあらずでは文官たちにも迷惑であろう。
曰く、子の誕生を待つ帝のために、隣室を整えてあるのでそちらで待っていただきたい。
そう告げられた朱夏は、この時ばかりはと許可を出した烏を伴って、産室の隣の部屋に陣取っているのである。
用意された長椅子に腰掛けはしたものの、すぐに立ち上がってうろうろと歩き回る。
烏が気を落ち着けるためにと淹れた薬草茶にも目を向けず、扉まで進んで廊下を窺ってみては、また長椅子まで戻った。
「今上さま、少し落ち着かれませ」
言っても意味はないであろうと烏にもわかっているが、それでも声を掛けずにはいられなかった。
朱夏にとって初めての子が誕生するのだ。遥か昔より、女人のお産は命がけである。
心許せる唯一の相手である舎利の身が案じられ、無事の出産を願うしか朱夏にできることはない。
少しでも主君の気を紛らわせようと、烏は敢えて事務的な内容を振ることにした。
「夏の宮の侍女長どのは、どうなさっておいでですか」
再び廊下を窺っていた朱夏は、烏の問いにはっと目を見開いた。
緩く頭を振った後、朱夏は長椅子に腰掛けようやく薬草茶を口にした。冷めきっていたが、心を落ち着けるのにはちょうどよい。
茶器を卓に戻し、ふうっと息を吐き出した朱夏は烏に目を向ける。
「済まぬ。気遣わせたな」
「いえ。吾にも経験はございませんし、今上さまのご心配ももっともですから」
「それで、秋穂の様子だったか。先月不躾に舎利を訪れた理由を尋ねたが、不在の煌の代わりにご挨拶に出向いただけだと言い張ってな」
煌姫が連れ去られて以来、食事もあまり喉を通らず睡眠もままならなくなった秋穂である。ふくよかであった体は痩せ細り、それでも煌姫が戻ってきた時のためにと夏の宮の管理に働き、瞳にだけぎらぎらと意思の光を宿していた。
「朕の許可があると偽ったことについても、どうも要領を得ない返事でな。まこと、朕の許しを得ていたと思い込んでいるようであった」
「左様ですか」
薬草茶のお代わりを注ぎながら、烏は相槌を打った。
「舎利に渡した香も調べさせたが、不審なものは混入されていなかった。ひとまず安堵したが……あれも、秋穂に言わせると、煌のためだと」
「煌姫さまの?」
眉間に皺を寄せた烏に、朱夏も苦笑を浮かべた。
「朕の体を慰めるためと、重臣たちを黙らせるために第二室が必要だったことはわかっている、と。だが、それでも煌を忘れないように、煌を思わせる香を贈ったのだと。そのようなことをせずとも、朕が煌を忘れるなどあり得ぬと、そう説得したのだがな」
疲れたように息を吐き出し、朱夏は烏を見上げる。
「朕は、煌を忘れているように、見えるのだろうか」
「いつもお側におります吾らはそのようなことはありませんが。第二室さまのご懐妊が、やはり侍女長どのを不安にさせたのではありませんか」
「それにしても、産み月間近のあの折にわざわざ奥宮まで来たというのは、気にかか……」
不意に、隣室から漏れ聞こえる声が大きくなってきた。
はっとして立ち上がり、扉を出かけたところで烏が朱夏に声を掛ける。
「呼ばれるまで待機と、言われましたでしょう?」
「う……」
「今お隣に飛び込んだりなさっては、和沙どのに大目玉を食らいますよ」
「う……む」
弱々しく眉を下げた朱夏の耳に、産室のざわめきがますます大きく聞こえてきた。
壁の向こうから、「お方さまっ、お気を確かにっ!」などと和沙の声が響いてきては、もう我慢できそうにない。
部屋を飛び出した朱夏の前に、立ち塞がったのは表宮から派遣している筆頭薬師の老爺であった。
「退け」
低く命じる朱夏の声にも動じず、筆頭薬師は微笑んだまま両腕を広げた。
「なりませぬよ、今上帝さま。産室へは、お産が終わるまで男は入れませぬ。古来より、そういうしきたりですぞ」
ここで言い争っている間にも、舎利の苦しそうな声が途切れがちに聞こえてくる。ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、朱夏は産室の扉を睨んだ。
「朕が中に入ろうとも、其方らが黙っていればわかるまい」
なおも言い募る朱夏に筆頭薬師がさらに止めようと口を開いた時、微かな泣き声が朱夏の耳に届いた。
はっと顔を見合わせた朱夏と薬師が、同時に扉を凝視する。震える指を朱夏が扉にかけようとしたその時、内側から開かれた。
顔を出したのは浪嶺である。真っ白な装束に汗を滲ませながら、朱夏の姿を認めて笑顔を浮かべた。
「世を遍く照らす今上帝さまに、一の親王さまご誕生のお慶びを申し上げます」
深く頭を下げた浪嶺をその場に残し、朱夏は今度こそ産室へと飛び込んだ。




