佰捌拾玖
汐之が表宮に戻った後の奥宮で。
朱夏は舎利と並んで座ったまま、その手を握っていた。
浪嶺と和沙は壁際まで下がり、二人の会話が聞こえない距離にいる。
唇を舐め、朱夏は意を決して口を開いた。
「身重の其方に聞かせる話ではないかもしれぬが」
「……朱夏さま?」
「次の大船か夏煌丸の帰還で、恐らく妙葵が戻ってくる」
「っ、ご正室さまを、連れ去ったという……?」
舎利の呟きに朱夏は重たく頷いた。
「其方は顔を合わせたことはないと思うが。煌が……私の正室がともに戻れるかはまだわからぬ」
「……はい」
「だが、あちらの国の王は連れて来られた煌のことを、私の妻だとは知らなかったらしい」
「……」
朱夏の握る手の下で、舎利の指先が冷たくなる。そっと、温めるように朱夏は両手で包み込んだ。
「済まぬ。やはり、この話はやめておくか」
目を逸らした朱夏に、舎利が首を振った。
「そこまで聞かせておいて、やめるだなんて余計気になるじゃないですか」
頬を膨らませてみせた舎利に、朱夏は眉を下げた。
「それもそうだな。だが、気分が悪くなったらすぐに言ってくれ」
「はい」
「それで、ええと。かの国の王は、幼い女人が好みではないらしい。外交官たちの報告でしか知らぬが、我が国と国交を開く以上、煌のことは返してくれるだろう」
朱夏の言葉に息を呑み、舎利は口を挟まずにじっと話を聞く。
「次の船か、それともその次か。大船で戻るか夏煌丸に乗ってくるかも、まだわからぬ」
「……はい」
「早ければ今年の夏だ。捕縛した妙葵を乗せた船が戻る」
舎利の手の甲をそっと撫で、朱夏は言葉を重ねる。
「政争の後始末について、其方に聞かせるつもりはないのだが。もし妙葵とともに煌が戻って来られれば、思っていたよりも早く其方に会わせることになるだろう」
「……」
「たくさん傷ついているかもしれぬ。恐ろしい目に遭って、人と会うことを拒むやもしれぬ。だが、其方に支えてもらいたい」
「朱夏さま……」
眉を下げた舎利の膨らんだ腹を、朱夏は優しく撫でた。
「ここにいる私たちの子も、煌に認めてもらわねばならぬ」
朱夏の手に己の手を重ね、舎利は震える唇を開く。
「先日、夏の宮の侍女長さまがおいでになりました」
「侍女長……秋穂が!?」
聞いていない、と朱夏は目を剥いた。泣き笑いのような舎利の表情に、朱夏の胸を不安が襲う。
「何を言われた?」
「いえ、ただご挨拶に、と」
朱夏の乳母を務め、夏の宮で煌姫に仕えていた秋穂は、夏の宮の火災の後から本宮に部屋を与えられている。いずれ煌姫が帰還した際にはまた側で仕えさせようと、本宮の使用人たちと同じ区域に居室があるはずであった。
「……夏の宮の侍女長を名乗ったのか」
現在夏の宮は封鎖されている。秋穂の思惑が掴めず、朱夏は眉間に皺を寄せた。
「誰が奥宮へ入れた?」
その言葉に、舎利が驚いたように瞳を見開いた。
「朱夏さまが、お許しになったんじゃあ……?」
「何?」
「そう、仰せでしたよ?それで、黒門の武官たちも通したとか」
朱夏は壁際に立つ浪嶺に視線を向けた。手招くと、さっと足早に近寄ってくる。
「今上さま、いかがなさいましたか」
「先日、夏の宮の侍女長が来ただと?何故報告がなかった?」
厳しい詰問に、浪嶺は驚いたように目を瞠った。
「今上さまのお許しを得ていると、書状を見せていただきました」
「書状?」
眉を上げた朱夏に、浪嶺が淡々と続ける。
「ご正室さま付きの侍女長さまが、第二室さまであるお方さまの元を訪れるのは、そう不自然なことではございません。今上さまのお許しも得ているならと、黒門を通過したはずです」
「だが、朕は許可など出していない」
その言葉にはっとして、浪嶺は「失礼を」と呟いて壁際に駆け寄った。寝台脇の小卓の抽斗を乱暴に開けている。
舎利の肩を抱き寄せ、朱夏は考えを巡らせた。
煌姫をこの上なく大切に思っていた秋穂が、朱夏の許可も得ずに奥宮に入ったという事実が、じわじわと不安を大きくしていく。何のために、身重の舎利に挨拶などに来たのか。
浪嶺が何かを抱えて戻ってきた。
「今上さま、こちらを」
「何だ?」
差し出されたのは白い紙に包まれたものであった。朱夏の手の平にすっぽりと収まりそうな、小さな包みである。
「侍女長さまがお持ちになった、香なのですが」
「香?」
「薫風と、仰せでした」
朱夏は息を呑んだ。成婚の儀の夜、煌姫が装束に薫きしめていた香である。
「秋穂は、何と言ってこれを?」
「今上さまがお気に入りの香であるから、次のお渡りの夜には薫くとよい、と」
まさか、香に何か仕掛けてあるとも思えないが、朱夏は慎重に浪嶺の手から包みを受け取った。取り出した懐紙で、さらに厳重に包み懐にしまう。
「これは、預かる。こちらで調べるゆえ、其方らは案ずることはない。他にはないな?」
不安に揺れる舎利の瞳を覗き込み、朱夏はそっとその髪を撫でた。
「浪嶺、奥宮への立ち入りを朕が許可した者は、其方に直接知らせる。書状など持たせることはしないから、二度と入れるな」
「かしこまりました。お詫びの言葉もございません」
口惜しそうに唇を噛む浪嶺の背を、和沙が大きな手でどんっ、と叩いた。
「わたくしだって、同罪ですよ。今上さま、申し訳ございません。まさか侍女長さまが、そのような偽りを申されるとは思いませんでした」
深々と頭を下げた母娘に頷きを返し、朱夏は舎利にも言い聞かせる。
「此度は何事もなかったからよいが、大事な体だ。どのような相手が何を言ってこようとも、私の許可がないと押し切って断われ。よいな?」
「……はい」
舎利の震えが治まるまで、朱夏はその背を撫で続けた。




