佰捌拾捌
烏に町で買ってこさせた菓子を手に、朱夏は汐之を伴って奥宮へと入った。
黒門を守る武官に、汐之の立ち入りの許可を告げる。
「身重の第二室に、義父上がご機嫌伺いだ」
深く拝礼した武官が、重たい黒門を開けた。
朱夏とともに内に足を踏み入れた汐之が、感嘆したように吐息を漏らす。
「まさか、この身が奥宮に立ち入る日が来ようとは」
「無論初めてであろう?」
「ええ。何というか、清々しい香りが致しますな」
歩きだした朱夏は汐之の感想に微笑んだ。
「父上の頃の奥宮は、もっと冷たい空気が漂っていたが」
「ご側室さまも多数抱えておいででしたからね。女人同士の苛烈な争いの宮であったことでしょう」
現在、朱夏の寵を争う者はいない。奥の部屋に舎利が第二室として構え、女主人として奥宮を采配しているのだ。女主人の空気が、そのまま奥宮の雰囲気となって温かさを感じさせていた。
舎利の居室の扉前で、控えていた武官が汐之の姿に一瞬目を瞠った後、静かに扉を開いた。
「舎利、気分はどうだ」
長椅子に腰掛け、手巾に刺繍をしていたらしい舎利が、朱夏の姿を認めて立ち上がろうとした。
慌てて駆け寄り、朱夏は舎利の肩に手を置く。
「よい。じっとしていよ」
「ありがとう存じます。腹が重くて、なかなか動けず……」
言葉の途中で、扉側に立つ汐之の姿に気づいた舎利が目を丸くした。
「義父上さま……いえ、湊刃の大臣?」
舎利の膝掛けを直してやり、朱夏は手土産の菓子を卓に置いた。
「其方の顔が見たかったそうだぞ」
朱夏の言葉を受けて、汐之が深々と拝礼する。
「第二室さまにおかれましては、ご機嫌麗しゅう。お健やかにお過ごしのご様子で、安堵致しました」
「ありがとう存じます、湊刃の大臣」
「義父上と、呼んで構わぬのだぞ?ここは、表宮ではない」
舎利の隣に並んで座りながら、朱夏は膨らんだ腹をそっと撫でる。
「今日は、子の様子はどうだ?」
「ふふっ。先ほどまで、元気にわたくしの腹を蹴っておりました。今は、眠ったのかしら?」
幸福そうに頬を染めて微笑む義娘の姿に、汐之の口元も緩んだ。
「何か足りないものなどございませぬか?」
視線を上げた舎利は、汐之に向かって笑顔を見せた。
「はい。よくしていただいておりますし、こうして今上さまが気にかけてくださいます。これ以上を望んでは、罰が当たりますわ」
「もっと欲深くてもよいのだぞ……おっ、蹴ったぞ!」
舎利の腹を愛おしそうに撫でていた朱夏が、瞳を輝かせた。
「そうか、其方もそう思うか。うむ、其方の母上はもっと我儘になってもよいと、父は思うのだ」
「ま、今上さまったら……」
口元に手を当てて目を細めた舎利に、朱夏は労うように言葉を重ねる。
「欲しいものはないか?食べたいものや、見たいものなど。奥宮から出してやることはできぬが、可能な限り用意させよう」
「またそんなに甘やかして。今のままで、わたくしは十分満ち足りていましてよ」
そう言って、舎利は傍らに立つ浪嶺に目を向けた。
「浪嶺も和沙も、こうして側にいてくれます。今上さまも度々お通いあそばして、幸せでございますわ」
「勿体ないお言葉でございます」
浪嶺が頭を下げると同時に、部屋を離れていた和沙が入ってきた。
よく日に焼けていた肌も奥宮で過ごす内に落ち着いたのか、少し白くなったようである。
編み込んで纏め上げた髪には白いものが混じり、浪嶺と同じ薄紅の瞳は慈愛に満ちていた。舎利よりも頭一つ分ほど背が低いようだが、ふくよかな体型のせいか小柄な印象はあまりない。
恰幅のいい腕に茶器と茶菓子を乗せて、きびきびと歩いてきた。
「あらあらまあまあ。今上さまも、汐之さまもおいでだったんですねぇ」
「邪魔をしているぞ」
「ほらほら、浪嶺。卓の上を空けてちょうだいな。お茶を淹れてきたから」
朱夏の前でもお構いなしに、素の言動を見せる和沙であった。
苦笑しながら、浪嶺が卓の上に茶器を乗せられる場所を作っていく。
「今日は、西領の薬草茶でございますよ、お方さま」
かちゃかちゃと茶器を扱いながら、和沙の視線がよけられた菓子の包みに向いた。
「こちらは?」
「今上さまが、お土産にとお持ちくださったのよ」
「まあまあ。町で人気の菓子でございますねえ。では、今日のお茶菓子はこちらに致しましょうか」
目線だけで、包みを開く許可を朱夏に求める和沙に、朱夏も頷いた。
「湊刃の大臣。其方もこちらへ来て掛けるがよい」
「いや、しかし……」
「あらまあ。よいではありませんか、汐之さま。今上さまもこう仰せなんだし」
何とも肝の据わった女人であった。
苦笑を堪えきれずに、汐之は寝台脇から己で椅子を運んできて、朱夏たちの向かいに座る。
「西領の薬草茶は、奥宮でも飲まれておりましたか」
「うむ。今の舎利に酒は飲ませられぬからな。唱洪渡りの薬草茶よりも、こちらの方が舎利の口に合うようだ」
「何と申しますか……飲んだ後、体が軽くなるような心地が致しますの」
人数分の茶を淹れ終えた和沙が、手際よく菓子を並べていく。
「まあまあ。綺麗なお菓子でございますねぇ」
「桜餅の一種のようだが。今人気の甘味処が独自に作ったもののようでな。近頃、民はこの桜餅をよく食べるのだとか」
薄桃色に色づけられた餅に、塩で味つけた桜の葉が巻かれていた。卓に並べられた見目よい菓子に、舎利の瞳が輝く。
「さあ、いただこう」
朱夏の言葉で、和やかな茶会が始まる。
穏やかな一時であった――。




