佰捌拾漆
年が明け春の足音が近づく頃――。
夏煌丸の四度目の出航を果たした四季の国では、舎利の腹も大きく膨らみいよいよ産み月も間近とあって、宮中には祝いの空気が漂っていた。
執務室の内をうろうろと歩き回り、奥宮の方へと足を踏み出しかけては、両大臣に窘められる朱夏である。
「今上さま。産み月まではまだ間があるのです。もう少し落ち着かれませ」
呆れたような輝山の大臣の言葉にも、朱夏は空返事を返した。
「やはり舎利の側についていた方がよいのではないだろうか。和沙も浪嶺も頼りにしているが、男手が必要なこともあろう」
「清潔な白い布もふんだんに取り揃えましたでしょう?櫻花楼から、身重の体によい薬草も献上されました。産婆は経験豊富な者を詰めさせております」
奥宮の一室に、代々帝一族のお産を取りしきる産婆がすでに呼び寄せられていた。
藤の離宮で夏勢院の看護に努める薬師まで呼びつけ、本来ならば朱夏のために表宮に詰める筆頭薬師も送り込んであった。
男子禁制の奥宮が一時的に薬師で溢れており、不審な人物が入り込まないように、烏を始めとした警護の者たちの警戒度は最大限に引き上げられている。
「いっそ一思いに、ぽんっと生まれてこないものであろうか」
両大臣が何とも言えない表情を浮かべる。帝の第一子が、そう軽々しく誕生してしまっては困るのだ。
小さく息を吐き、汐之が諦めたように声を掛けた。
「今上さま。本日はもう、奥宮へ渡られませ」
その言葉に、朱夏が驚いたように振り返る。窓辺に立って、見えもしない奥宮の方を窺っているところであった。
「湊刃の大臣?」
「そのようにうろうろなさっては、こちらも気が散って仕事になりませぬ。第二室さまのお側におられるとよい」
「そうはっきり言わずとも……」
眉を下げた朱夏に、輝山の大臣もふくふくと笑いを漏らす。
「第二室さまがご無事に出産なさるまで、奥宮に籠っておられても構いませんぞ」
「……そういうわけにもいくまい」
朱夏の視線が、己の執務机の上に向く。妙葵の捕縛のための武官が、無事に亜伊夜の国へたどり着いたという報告書であった。親雪を乗せて大陸へ渡った夏煌丸が、帰還する際に乗せてきた善有からの書状である。
「次の大船が戻るまで、まだ三月ほどございます。それまで新たな報告は参りませんし、少しばかり政をお離れになってもよろしゅうございますよ」
「重臣方も、この頃ようやく悟られたのでしょう。第二室さまが身籠られている間であろうとも、今上さまのお手つきになる者がいなかったのですから」
奥宮への人の出入りは制限されているが、その代わりというように表宮内ですれ違う貴族家の娘たちの姿が増えていた。閨をともにできないであろう舎利の代わりに、朱夏の寵を得たいという思惑によるものだった。
しかし、朱夏がこれらの娘たちに目を奪われることなどなかった。果ては娘だけでなく、重臣の家の当主がその妻や姉妹までも送り込もうとしてきたところで、朱夏が一喝したのだ。「朕を獣だとでも思っているのか」と。
額に手を当て、ようやく静かになってきた表宮を思い起こして、朱夏は溜息を吐いた。
「舎利が身二つになれば、その体調が回復するまでとか何とか言って、また何か仕出かしそうだな」
「その前に、何としてもご正室さまの帰還を叶えたいところですな」
「左様。今上さまの隣にご正室さまが並び立たれ、その後ろに第二室さまが控えるならば、他の家々からの横槍も入れにくくなるでしょう」
両大臣の言葉に、朱夏は重々しく頷いた。恐らく、次に夏煌丸が戻る際には捕縛した妙葵を乗せているはずである。煌姫をともに連れ帰れるかどうか、それだけが気がかりではあった。
「妙葵の顔を再び見られるまで、あと四月か。この時間差がもどかしい」
「こればかりは、仕方ありませぬなあ」
困ったように苦笑し、汐之が立ち上がった。朱夏の瞳をじっと覗き込む。
「湊刃の大臣?」
「さて。気もそぞろな今上さまに、願い出たい儀がございます」
改まった言葉と態度に、朱夏は首を傾げた。
「どうした?」
「産み月間近の第二室さまに、義父として目通りをお願い致したく」
朱夏の瞳が真ん丸に見開かれた。入内して一年以上、汐之が舎利に会いたがったのはこれが初めてであった。
「珍しいな?」
「何も奥宮に入らせてほしいとは申しませんよ。いえ、お許しいただけるなら参りますが」
帝以外の男の立ち入りが禁じられているとはいえ、許可さえあれば入ることはできる。
日嗣宮であった頃の朱夏が、父の許しを得て母美紘の見舞いに訪れたように。
「舎利を奥宮から出させるとなると、警護や体調について見直さねばならぬ。大仰なことを舎利が好まないからな。朕とともに其方が奥宮へ入ることを許そう」
「かたじけない。いえ実は、妻に頼まれましてね」
「細君に?」
首を傾げた朱夏に、汐之が微笑んだ。
「腹が膨れて思うように動けないであろう義娘に、何か欲しいものがないか、きちんと顔色を見て聞いてやってこいと」
その言葉に、朱夏はしばし目を瞠った後で破顔した。




