幕間Ⅲ
『……ぁ、もう……お許しくださ……ぃ』
か細く鳴く女の声に満足し、青年は寝台を降りた。脇に控えていた侍女に女の世話を言いつける。
「今宵のために、ゆっくり寝かせてやれ」
「かしこまりました」
震える女の黒い髪を一房手に取り、毛先に口づけてやった。
「また今夜な」
青年の言葉に答えは返らなかったが、全身に赤く刻んだ証を満足げに見下ろして寝所を後にした。
扉外に控えていた宰相に青年は声を掛ける。
「引き渡しの手配は終わったか?」
「はい。万事滞りなく」
「マドゥールの奴め……まさか皇帝の妃をさらって逃げてきたなどと、誰が思うか。面倒事を持ち込みおって」
苛立たしげに呟きながら、青年は回廊を大股に歩く。早く湯で汗を流したかった。
「あとは、後宮にいる姫をどうするか」
「結局お目通りなさったのですか?」
宰相の問いかけに、青年はくすりと笑いを漏らした。
「陛下?」
「俺があの女を夜毎呼びつけるために、側を離れることを不審に思ったのだろうな。こっそり後をつけて寝所まで来た」
目を見開いた宰相が、恐る恐る尋ねる。
「まさか、お手をつけたのですかっ?」
海の向こうからやって来た外交官たちが留まっている、大切な時期である。これ以上の厄介事はご免であった。
くつくつ笑いながら、青年は湯殿の扉を小姓に開けさせた。
「俺があの女を寝台に組み敷こうとしたなら、飛び込んできてな。ぷるぷる震えながら、女を庇うように両手を広げていた。てっきり深窓の姫かと思っていたが、とんだじゃじゃ馬だ」
「よもや、お気に入られたなどということは……」
「薄茶の髪も薄桃の瞳も、将来美人になるだろうとは思うがな。俺には幼すぎる」
ほっと息を吐き出した宰相を軽く睨みながら、青年は腰に巻いた薄布を取り払った。蒸気で満たされた湯殿の内に入り、香り高い木でできた椅子に腰掛ける。
じっとりと汗ばんだ後に水を浴びるのが、この国の湯浴みであった。
「マドゥールのことは、ツィカユーキが連れて戻った武官たちに引き渡せばいい」
「御意」
「それと、ゼンアたちが持参した真珠という宝石な。あれを首飾りにでも加工させろ」
額に浮かんだ汗を手巾で拭きながら、宰相が目を細めた。
「どなたかに、贈られますか?」
「黒髪の女に」
目を剥いた宰相に、青年は機嫌よく続ける。
「俺は決めたぞ。必ずあの女を孕ませて、俺の妃にする」
「それほどご執心とは……」
「幾晩肌を重ねても愛してやっても、あいつはちっとも俺に靡かん。あの頑なさがよい」
閨での女の様子を思い返しながら、青年はくすくすと笑う。
「マドゥールなどに、返してやるものか」
「後宮に入った時点で、すべての女は陛下のものです」
本来男子禁制である後宮に自由に宰相が立ち入りを許されているのは、数年前に患った腰の病により男性としての機能を失っているからである。
肉体的に姦通を犯す懸念のない宰相は、後宮に暮らす侍女たちからも頼りにされていた。
「だが、あの幼い姫は返せ。俺の後宮には要らん。育つまで待つ気もない」
小姓が用意した冷たい果実酒を呷りながら、青年は宰相にそう指示した。
「妻を返してやると、島国の皇帝に恩を売ってやれ。そして、真珠を都合させるのだ」
「では、黒髪の侍女には呼び名が必要ですな」
「……リリーナ」
「はい?」
首を傾げた宰相に不敵に笑い、青年は汗まみれのまま隣の水風呂に飛び込んだ。
ざばりと頭まで水に浸かり、水面に顔を出す。
「あれのことは、リリーナと呼ぶことにした。俺から名を賜ったと知れば、重臣どもが騒ぐぞ」
楽しそうに告げる青年に宰相が苦い表情を浮かべた。
「公表なさるのは、首尾よく身籠られてからの方がよろしいかと」
「閨で呼ぶ分には構わんだろう。アイーヤ国で春に咲く花の名だ。あの女によく似合うだろう」
これほど上機嫌な主君を見たことのなかった宰相は、遠い島国から連れて来られた侍女が、王の御子を宿すことを心から願ったのだった――。




