佰捌拾陸
大港に櫻花楼の船が戻ったとの報せが朱夏の元にも届いた。
夏煌丸や交易のための大船とは違い、一隻しかない船を存分に活用しようと、およそ九ヶ月にも渡る航海を終えての帰還であった。年の暮れの季節であり、冷え込む大港に朱夏が赴くことは両大臣とも許さなかったため、本宮で凛慈からの知らせを待っているところである。
櫻花楼の船よりも一足早く戻った大船には、善有の報告書が積まれていた。夏煌丸の二度目の出航の際に送った親書の扱いに対する返信である。
執務机に向かい、朱夏は善有から届いた書面にじっくりと目を通した。両隣から、気遣わしげな視線が向けられる。
ふう、と息を吐いて顔を上げた朱夏に、輝山の大臣が尋ねた。
「いかがでございましたかな」
「……うむ。強気に書いて送った親書を、亜伊夜の国の王には渡したようだな」
「ほう」
片眉を上げた汐之が、朱夏から手渡された報告書に目を落とす。
「どうやら、かの国の王や宮廷の者たちは、妙葵が連れてきた姫というのが朕の妻だと知らなかったらしい」
「それは……」
「これから交易をしようという我が国との間に、禍根を残したくないという、重臣たちの意見が一致したようだな」
書面から目を上げた汐之が、輝山の大臣に頷いてみせた。
「もう一通の方は、きちんと二人が見届けて焼却したようですな」
書状を渡された輝山の大臣も、善有の報告を読み始める。
「親雪が再び乗っていった夏煌丸に、捕縛のための武官を乗せていったからな。首尾よく連れ帰るとよいのだが」
「あとは、煌姫さまですか」
「それと春香だ」
善有の報告書に、煌姫についての記載はなかった。いや、後宮にいるらしいと噂だけは耳にしたが、亜伊夜の国の王からそのことがまだ語られていないようだ。
「恐らく、煌の側には春香がいるはずだと思うのだ」
「妙葵の細君ですな」
輝山の大臣に頷き、朱夏は難しい表情で考えを纏める。
「夏に戻った親雪の話では、どうも春香は亜伊夜の国の王が手をつけたようだった」
話が違うと、酒の席でくだを巻いていた妙葵の目撃談を、親雪は語っていたのだ。
「春香がどのような立場に立たされ、煌がどのように扱われているのか。後宮という閉ざされた場所でのことだから、少しも掴めぬ」
「妙葵の捕縛のための武官たちも、力ずくで後宮に押し入るなどという真似はできないでしょう」
「先に送った親書に従って、妙葵の捕縛とともに煌を返してくれるつもりがあればよいのだが」
悩ましく眉を寄せた朱夏に、汐之が重々しく口を開いた。
「恐れながら、今上さま」
「何だ?」
「春香どののことは、今は考えるべきではございません」
きっぱりと告げられた言葉に目を見開き、朱夏は汐之に視線を向けた。
「湊刃の大臣?」
「貴方さまが第一にお考えになるべきは、ご正室さまのことです。そして、四季の国に弓引いた妙葵を取り押さえること。それ以外は、些事と思し召しください」
「些事……」
組んでいた腕を思わず解き、朱夏は立ち上がりかけた。
それを手で制し、汐之がさらに続ける。
「冷たいことを申し上げるようですが。春香どのは、成る程貴方さまの昔馴染みであられる。その身を案じられるのは当然のことと、私も思います」
「ならば……」
「ですが。今の春香どのは、遠い異国の地に渡った、一臣下の妻でしかない」
「……」
目を瞠ったまま唇を噛む朱夏に、汐之が噛んで含めるように言い聞かせる。
「しかも、その臣下は重罪人です。たとえ煌姫さまともに帰国が叶ったとしても、春香どのが今後この国で心穏やかに暮らせる保証もない」
「……っ」
「煌姫さまのお側近くに侍ることを、許すこともできません。今上さまがお許しになられても、我ら両大臣や重臣の方々が納得されますまい」
返す言葉が思い浮かばず、朱夏はじっと汐之の言葉を聞くしかできなかった。
「亜伊夜の国で、王の寵愛を真実受けておられるなら。そのままかの国に残った方が、幸せやもしれませぬ」
「それは……そんなこと、は」
「下賜なさった女の行く末が気にかかるのは、今上さまのお優しいお心では仕方のないことです。しかし、今優先すべきことは妙葵の捕縛と煌姫さまの奪還です」
厳しい言葉だった。
煌姫を救出し、妙葵を捕縛して罪に問うのが最優先。それ以外は、春香のことは捨て置けと、汐之は言っているのだ。
そしてその言葉が、正しいことも朱夏にはわかっていた。
朱夏の脳裏に、やわらかな黒髪と新緑の瞳が思い浮かぶ。こちらを見て微笑む表情と、口元に浮かぶ黒子。潤んだ瞳で朱夏を見つめ、常に一歩下がって侍っていた。
幸せな婚姻になるようにと、妙葵を選んで下賜したのだ。こんなことになるのなら、あのまま夏の宮で侍女として仕えさせておけばよかった。
悔やむ朱夏の内心を慮ってか、汐之もそれ以上は何も言わなかった――。




