佰捌拾伍
執務室の窓から、朱夏はよく晴れた高い空を仰ぎ見ていた。
どこまでも続くこの空の下、遥か亜伊夜の国まで朱夏の想いが届くといいと願いながら――。
「今上さま?どうなさいました」
背後から声を掛けられ、朱夏は我に返って振り返る。心配そうに汐之が眉を下げていた。
「済まぬ。少し、考え事だ」
「今宵は早めに奥宮へ渡られますか?」
執務机に戻り腰を下ろした朱夏は、緩く頭を振った。
「新たな情報が届かず、どうしたものかと思ってな」
大港に帰還した大船に、外交官三名からの報告書が乗っていなかったことに、朱夏の胸の内に不安が募っていた。
これまで欠かさず書状を送り届けてきた三名の身に何かあったのか。
ただ、報告すべきことがなかっただけなのか。
彼らが国元を離れてからすでに一年以上が過ぎている。亜伊夜の国で、彼らはどうしているのだろうか。
妙葵を引き渡すようにと書きつけた親書は、亜伊夜の国の王に手渡されたのであろうか。
心配は尽きなかった。
「来月には夏煌丸が戻ります。外交官の誰かか、詳細な報告書が必ず今上さまのお手元に届くでしょう」
励ますような汐之の言葉に、朱夏は重く頷いた。
大港を出航した船が大陸に到着するまでにおよそ二月。
そこから亜伊夜の国までは、さらに一月かかる。夏煌丸に乗っていった親雪が再び亜伊夜の国を訪れたとしたなら、次に四季の国の地を踏むのは来年ということになる。
来月帰還する夏煌丸に外交官の誰かが乗ってくるとすれば、親雪以外の二人のはずだった。
「第二室さまのご様子はいかがですか」
朱夏の気分を変えようと、汐之が努めて明るい声を出した。その気遣いに乗ろうと、朱夏も口元に笑みを浮かべる。
「和沙がべったり側についている」
大港から呼び寄せられた、浪嶺の母であり汐之の乳母であった女性の名である。身重の舎利の側に、経験豊かな大人の女性を仕えさせようという汐之と輝山の大臣の配慮であった。
ふくよかな体をゆったりした装束に包んで揺らす、よく日に焼けた気風のいい女性である。
「おや。随分第二室さまを気に入ったのですねぇ」
「元から仲の良い母娘のような……ああ、いや。其方の乳母君だったのだから、祖母上と孫娘のようというか。まあ、奥宮で仲良くやっておる」
「浪嶺のように武芸に秀でてはおりませんが、肝の据わった女です。第二室さまの真っ直ぐなご気性と、馬が合ったのでしょうな」
汐之の感想に苦笑を漏らし、朱夏は吐息を零した。
「今上さま?」
「いや。奥宮には男が朕しか入れないからな。その……女同士で結束されると、朕は弱いというか」
「何を情けないことを仰せですか」
吹き出しかけた汐之が慌てて表情を取り繕う。
「舎利を案じる朕にな、和沙と浪嶺が二人がかりで言うのだぞ?『今上さま、お方さまに構いすぎです。病人ではないのです。ご自身で動かれますから、今上さまは一歩お下がりください』と」
今度こそ、堪えきれずに吹き出した汐之であった。
くすくすと笑いながら、目尻に浮かんだ涙を拭ってみせている。
「それは、何と言いますか……」
緩く頭を振って、朱夏は困ったように汐之を見上げた。
「舎利は舎利で、奥宮の内ならば安全だからと、歩き回るのだ。重臣の家からの侍女たちは以前追い出し、一人残った者も舎利の私室には近寄らないようにさせているというのに。舎利の方から近づいては何にもならぬ」
ぶすっと口を尖らせた朱夏に、汐之はようやく笑いを収めて答えを返した。
「奥宮の内は、輝山からの武官で固めてありますし。黒門には、今上さまの信頼厚い隠密たちもおります。毒見役も、通常のご側室さまに割くよりも多く、配置しておりますでしょう?」
「それでも、警戒しすぎて悪いことはない」
きっぱりと答えた朱夏に、汐之は真面目な表情を作る。
「それは仰せの通りです。ですが、心配しすぎて雁字搦めになるのもよくありません」
「湊刃の大臣?」
「考えすぎては、いざという時に動けなくなります。警戒も心配も、ほどよくが肝心です」
「……ほどよく、か」
朱夏の呟きに、汐之は安心させるような笑みを浮かべた。
「第二室さまのお側には、海の女である女傑がついていると。どんと構えておられればよいのです」
「どんと……」
「春先になってのお産では、どうせ男は役に立ちません。またこうして、思い悩まれることになりますよ」
だから今の内に、心を落ち着かせるようにしておけと、汐之はそう言っているのであった。




