拾漆
無情にも閉じられた扉を、朱夏はじっと見つめる。生きる世界を隔てられたような気がして、床に膝をついたまま立ち上がれなかった。
そんな息子を見やり、夏勢が深く息を吐いた。
「烏、しばらくこの部屋に誰も入れるな。息子と少し話す」
「御意」
音もなく烏が朱夏の私室から出ていき、静かに扉が閉じられた。
「朱夏、座れ」
立ち尽くしたままの息子に声を掛け、夏勢も腰を下ろす。
卓の上に置かれた器の中で、氷菓が溶けきって桃色の水となっていた。
「早くしろ。朕とて、暇ではない」
父帝の冷たい声に、朱夏はのろのろと先ほどまで琉兎といた場所に座った。尻から伝わる石の冷たさが、すでに琉兎はいないのだと告げているようで、胸が痛い。
「櫻花楼の店主から、此度のことはあまり表沙汰にしてくれるなと言われているのでな。其方を叱責はせぬ」
朱夏の脳裏に、冷たい瞳を笑顔に隠した老人の姿が浮かんだ。
「あの娘は、今宵水揚げだそうだ」
「っ!」
「買った者の素性は明かせぬそうだ。それはそうよな。いかに櫻花楼といえど、非合法な遊郭の客のことは、朕にも漏らせまい」
夏勢の言葉に、朱夏は弾かれたように顔を上げた。何故、違法な遊郭など、父は見過ごしているのか。
「何故……お咎めにならないのですか」
腹の底に溜まり始めた怒りをそのまま、父にぶつける。
息子のきつい眼差しを正面から受け止め、夏勢は少し首を傾げた。
「何を咎めろと?」
「違法な遊郭などっ、何故そのままにしておいでなのです!」
思わず叫んだ朱夏を面白そうに見て、夏勢は口を開いた。
「違法と其方は言うが。あの店がなくばどれだけの者が、路頭に迷うと思うている?」
「え……」
「成る程、先ほどの娘はまだ幼い。国が定めた法では、妓女として生きることはできぬ。では、あの娘はどうやって生きていくのだ?」
初めて裏路地で出会った時、朱夏も烏も琉兎のことを物乞いの子どもだと思い込んだのだ。
遊郭で暮らせないのなら、そうして他者から施しを受けて生きていくしかない。あるいは盗みを働いて、糧を得ていくか。
「櫻花楼とは、この国の流通を一手に引き受ける大店だ。この宮中にも、あの店の世話になる者は多くいる。それを、摘発せよと申すか?」
「で、ですが……。何も遊郭でなくとも」
「買う者がいるから、売る者がいる」
「えっ?」
冷えきった茶を一口含み、夏勢はじっと息子を見つめた。朱夏と瓜二つの青灰色の瞳には、帝一族として生きる息子への甘えを許さない冷徹さがあった。
「一つ潰したところで、また別の場所に店ができるだけのことだ。春を売る場がなくば、市井に暮らす者が被害に遭うやもしれぬ」
「だからと言って……それでも、法の下に商いをするべきでは……」
震える朱夏の声に、夏勢は溜息で応えた。
「理想を語るのはよい。其方が国を治める立場になった際に、必要な心だ。だが、現実を見つめることも必要ぞ」
「現実……」
「此度のことで、この国にはまだまだ、光が行き渡らぬ場所があることがわかったろう」
朱夏の脳裏に浮かぶのは、たった十日をともに過ごした少女の姿だった。そして、同時に思い出される従妹の顔――。
同じ色彩を持っているというのに、その生きる世界は真逆と言ってよかった。
生まれた場所が違うだけで、何故これほど違いがあるのか。煌姫は家族に囲まれ家臣たちに傅かれ、愛されて幸せな道を歩むのだろう。では、琉兎は――。
知らず唇を噛みしめた朱夏を見やり、夏勢は立ち上がった。朱夏の視線が父の動きを無意識に追う。
「これからも、よく学ぶことだ。理想を掲げることは容易なことだが、それを現実とするのは困難が伴う。それでも、あの娘のような者を救いたいと思うのならば、己に何ができるのかをよく考えよ」
そして、夏勢は迎えに来た家臣に連れられて慌ただしく私室を出ていった。
父に投げられた言葉に考え込んでいた朱夏は、去り際の夏勢の呟きに気づくことはなかった。
「……柊どのに、よく似ていたな。朕が手に入れるか」
ぱたりと、静かな音を立てて扉が閉じられた。
四季の国の一の親王朱夏にとって、苦い記憶の残る十歳の夏であった――。




