拾陸
耳に痛いほどの静寂が部屋を満たす。
何を言っていいかわからない朱夏は、ただ琉兎の瞳を見つめるしかできなかった。
静かな瞳だった。何の感情の揺れも浮かんでいない。それが、朱夏には無性に悲しかった。
「琉兎、私は其方を友として大切に思っている。其方が苦界に戻るのを、見過ごすことはできない」
朱夏の言葉に、琉兎は小さく首を傾げた。
「わたしは、わたしの世界に戻るだけ。これまでと、何も変わらない」
「だが、私は……」
それまで黙って聞いていた夏勢が、静かに口を開いた。
「朱夏。其方はその娘を救いたいのか」
弾かれたように父に顔を向け、朱夏は大きく頷いた。
「しかし、先も申した。其方にその娘の身請けの金が出せるのか?」
「……」
「其方が今こうして贅沢に暮らしているのは、民が納めた年貢があるからだ。それを、その娘一人救うために遣うのか?では、同じような境遇の娘がまた現れたならどうする?」
父の言葉に唇を噛む。
そうだ。己にもわかっている。琉兎一人助ける力さえ、今の己にはないのだ。
「その娘は助けて、後から現れた者は見捨てるのか?それが、親王としてすべきことか?」
父の言葉は正しい。それでも琉兎を、友を救いたいと思うのは、間違っていることだろうか。
「私どもは、どちらでも構いませんよ」
扉の方から聞こえてきた嗄れた声に、朱夏の肩が跳ねた。
警戒したように身構える烏の横を通り抜けて、恰幅のいい白髪の老人がゆったりと室内に入ってきた。
「今上帝さま、朱夏親王さまにご挨拶申し上げます。都で櫻花楼を構えます、凛慈と申します。お目通りの許可を待たずに参りましたこと、お詫び申し上げます」
「外で待てと申したろう」
苦々しく告げる夏勢に笑みを向け、凛慈と名乗った老人は朱夏のすぐ側まで歩いてきた。
「そうは仰せられましても、こちらも時がありませぬでなぁ」
好々爺然とした凛慈であるが、琉兎を見やる瞳の奥は笑っていなかった。品定めをするようなその視線に、朱夏は嫌悪感を抱く。
「琉兎、探したぞ。お前を気に入ってくださっていた御方が、今回のことでもう待てぬと仰せだ。さっさと戻って支度にかからねば」
こちらに向かって伸ばされる手から琉兎を庇うように、朱夏は前に出た。老人が困ったように眉を下げる。
「親王さま。どうぞお退きくださいませ。その娘は、我が店とお客様が権利を持つ者。いかに高貴な御方といえど、正式に買いをつけた方から奪うような真似は、感心致しませぬ」
「ならば、私がその客とやらから、買えばよいのか?」
「そうですなぁ。私どもは、正しく買っていただけるのならば、どちらでも構いませぬ」
凛慈だけを睨みつけていた朱夏は、手の甲に走ったぴりっとした痛みに目を見開いた。
驚いて顔を向ければ、琉兎が唇を震わせて朱夏を見ていた。薄桃色の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。いつの間にか力の入った琉兎の指先で、爪を立てられた朱夏の肌に傷ができていた。
「琉兎?もう少し待って……」
「わたしは、あなたに買ってもらいたくない」
「っ!」
ばっと手を振り払われ、朱夏は体勢を崩した。
「琉兎っ」
身を翻した琉兎が、凛慈の足元へと駆け寄った。
「小父さん、黙って出てきてごめんなさい。ちゃんと、お勤めします」
「おぉ、そうか。それはよかった。あの御方もお喜びだろう」
ほくほくと笑顔を浮かべ、凛慈が皺だらけの手で琉兎の頭を撫でた。
己以外の手が琉兎に触れるのを、朱夏は呆然と見ていた。触れるな、と思ってしまった胸の内に自身で驚く。
「る、琉兎……」
自身の口から出たとはとても思えない弱々しい声に、琉兎がちらりと視線を向けた。
「楽しかった。ありがとう」
「琉兎」
「それと……」
何を思ったのか再び朱夏へと近寄り、琉兎が耳元に唇を寄せてきた。
「お姐さんたちに聞いたことがあるの」
「……?」
「口づけは、大好きな人としかしちゃだめだって。だから、わたしは誰とも口づけしない」
「っ!」
離れていく顔を見つめるしかできない朱夏に、満開の花が綻ぶように琉兎は微笑んだ。
「また会えるかわからないけど。それでも、ここはわたしだけのもの」
細い指で己の唇を指し、琉兎は朱夏に背を向けて歩きだした。
遠ざかる背中が悲鳴を上げているように朱夏には感じられた。なのに、一歩も動けなかった――。




