拾伍
琉兎が夏の宮で過ごすようになって十日が過ぎた。
きちんと日に三度の食事を取り、午睡の時間も取れるようになって少し肉がついてきたようだった。宮に来たばかりの頃は枯れ枝のような細さであったのに比べ、随分健康的になったように朱夏の目には映る。
午後の鍛錬を終え私室に戻った朱夏は、烏に木刀を手渡して汗を拭く。外では夏の陽射しが強くなっているが、宮内はひんやりと涼しかった。
椅子に座り、侍女が運んできた菓子の置かれた卓を琉兎と向かい合って囲む。
「今日は桃を使った氷菓だ。甘くて冷たい。美味いぞ」
透明な器に盛られた氷菓は、北の地から運ばせた氷室の氷を使用した贅沢な夏の甘味だ。匙を手にした琉兎の顔が綻ぶ。
「桃、食べたことない」
「そうか。この時期には果樹園でよく見られる。味が気に入ったなら、明日は果実を運ばせよう」
「ふふっ。楽しみ」
十日の間に、朱夏と琉兎は随分打ち解けた。幼い頃からの友人のように、気安い会話を交わせる時間が、朱夏にとって心安らぐ一時となっていた。烏は苦い顔をしているが。
二人向き合い氷菓を楽しんでいると、部屋の外から騒がしい物音が聞こえてきた。
「何だ?」
氷菓の最後の一口を掬ったところだった朱夏は、眉を上げて扉に目を向けた。
「見て参ります」
控えていた烏が扉を開けようとしたところで、外から勢いよく扉が開かれた。
「!?」
礼儀を無視した行動に叱責の声を上げようとした烏は、既のところで言葉を飲み込んだ。慌てて、その場で跪く。
「ご無礼を致しました」
扉を開けて立っていたのは、息を切らしたこの国の帝であった――。
「……父上?」
驚きに目を瞠り、朱夏は立ち上がった。父帝がこの宮を訪ねてくることは滅多にない。
「突然の訪い、何事でありましょうか。今は執務のお時間では……」
「その娘か」
唸るような声に、朱夏は身を竦ませそうになった。四季の国を治める帝、夏勢は荒い息のまま大股に朱夏へと近寄ってきた。険しい視線を、座り込んだままの琉兎に向けながら。
朱夏と同じ濃紺の髪をきっちりと結い上げ、冠を冠った夏勢は青灰色の瞳でじっと琉兎を見据える。
知らず、朱夏は琉兎を庇うようにその前に立っていた。
「父上、一体何事で……」
「この国一番の大店の主から、嘆願状が届いた」
朱夏の言葉を遮り、夏勢が重々しく告げた。
「嘆願状?」
「店の商品が、高貴な御子に拐かされたと」
「商品……」
扉側の烏が息を呑む気配がした。あの日、琉兎を連れ帰った朱夏の姿を町で見られたのだろう。
「さる高貴な姫君と同じ色を持つ、幼い少女。嘆願状にあった特徴と一致する。その娘は、どこから連れて参った?」
詰問する口調に、朱夏は体の横で拳を握りしめた。ここで、素直に答えれば琉兎は連れ戻されてしまうかもしれない。だが、父帝に嘘を吐くこともできなかった。
逡巡する朱夏の手に、小さな手がそっと触れた。はっとして、座る少女を見下ろす朱夏。
「琉兎?」
「わたし、帰らなくちゃいけないみたい」
「何を……」
椅子からさっと立ち上がり、琉兎はじっと朱夏の瞳を覗き込んだ。
「やっぱり、お勤めから逃げちゃだめだったんだ」
「琉兎、待て」
「小父さんの言うとおりだった。ちゃんとお勤めして、お金を返さなくちゃ」
「る……」
「さよなら」
するり、と離れていく細い手首を、朱夏は思わず掴んでいた。
不思議そうに振り返る琉兎に、しかし朱夏は何も言えずにいた。
「朱夏?」
「其方は……其方の作った借金でもあるまいに、何故其方が……」
絞り出すような言葉に、琉兎は首を振った。
「小父さんが言ってた。母さんの作った借金でも、母さんに返せないのならわたしが働かなくちゃいけない、って」
「だがっ!其方……其方は、どうやって金を返すか、知っているのか……?」
朱夏の口からはとても言えなかった。言葉にしたくもなかった。
「何となく。小父さんが、最初はお客さんに任せればいいって」
「琉兎」
「初めは痛いかもしれないって、お姐さんたち言ってたけど。そのうち慣れるって」
「……っ」
掴んだままの手首を握る指に力が入る。このまま、琉兎を帰したくなかった。
無言でやり取りを見つめていた父に顔を向ける。
「父上、お願いがございます」
「……何となく見当はつくが。申してみよ」
「この琉兎という娘を、私の側付きにしたいと思います」
「ならぬ」
短い否の言葉に朱夏の頭にかっと血が上った。
「何故ですっ」
叫ぶ息子に、夏勢は頭が痛いとでも言うように額を押さえた。
「先ほど、その娘も申したろう。借りたものは、返さねばならぬ。それは人の道理だ」
「ですが、この者自身が作った借金では……」
「ならば、其方が身請けしてやるか?その金は、どこから出す?」
「みうけ?」
耳慣れない言葉に首を傾げた朱夏の手を、琉兎がそっと握り返した。
「朱夏。大丈夫。わたしは大丈夫だから」
穏やかな琉兎の声に、朱夏の方が泣きそうになった。




