拾肆
一日が終わる。
すべての予定を済ませた朱夏は、湯を浴びるまでの間、庭に下りて花菖蒲を見つめていた。
昨夜琉兎を眠らせた部屋をひとまず彼女の部屋として、夕餉の後で部屋に戻らせた。二人きりになった朱夏の私室で、烏から語られた琉兎の境遇に驚愕した。
淡々と紡がれる言葉に、目の前が真っ赤になるほどの衝撃を受けた。
『あの琉兎という娘は、恐らく違法な遊郭で暮らしていたと思われます』
遊郭の存在は朱夏も知ってはいた。春を売る女たちは、その生まれも育ちも様々だと聞く。
貧しい農村に生まれ、口減らしのために売られる者。
親が拵えた借金の形に売られる者。
行く当てもなく、身を売ることでしか生計を立てられぬ者。
だが、国に商いの許可を得ている遊郭では、十歳になる前の女児を働かせることは禁じられていた。
故郷で幼い内に売られたとしても、十歳になるまでは扶養院で過ごす。その生活費も買い手である遊郭の楼主が賄うため、売られた娘の借金は膨らむ。
客を取れるようになって、ようやく借金の返済が始まるという。
ふう、と息を吐いて、朱夏は視線を上げた。
烏は遊郭のような話を聞かせたがらないが、朱夏は知りたがった。これから先も、避けて通ることはできない。この国の真実の一部なのだ。
だが、琉兎のような幼い子どもが働かせられていたというのは、朱夏には信じられないことだった。
「違法な遊郭、か……」
国が禁じる行為を、あの裏路地で堂々と行っていたのならば許すことはできない。
烏の言葉が脳裏に蘇る。
『すべての民を救うことは、できません。違法な遊郭が存在するのは、必要とする者がいるからです』
とても納得できる話ではなかった。だが、朱夏はまだまだ、世間を知らない。己より遥かに経験を積んでいる烏の言葉に、反論できるだけの知識がなかった。
「親王さま」
後ろから掛けられた声にはっとする。
振り返ると、烏が気遣うような表情で立っていた。
「何だ?」
「初夏とはいえ、いつまでも庭にいてはお体を冷やします。どうぞ中へ」
「うん……」
答える己の声が弱々しく、朱夏は自嘲ぎみに笑った。
「親王さま?」
「私は、無力だ」
「親王さま!?」
ゆっくりと足を進めながら、それでも視線を下げないように朱夏は上を向く。
「いずれこの国を継ぐ者として、きちんと学んでいるつもりだった」
「はい」
「だが、私はまだまだ、何もわかっていない」
「……」
庭から内へ足を入れ、ふうと息を吐く。
「烏。これから先、民の暮らしを私に隠すな」
「……」
「私は、知らなければならない。この国の、明るいところも暗いところも」
庭へ続く扉を烏が閉める音を聞きながら、朱夏は拳を握りしめる。
「琉兎のような幼い者が、『お勤め』などと口にするのを当然のこととしてはならない」
「……」
「あれは、遊郭での妓女の勤めのことだろう?」
答えない烏に構わず、朱夏は湯殿へと足を進める。
「私では、すべての民を救うことなどできないかもしれない。遊郭とて、必要とする者がいるから存在するのだろう」
それでも、と朱夏は強い光をその青灰色の瞳に乗せた。
「違法な遊郭など、必要ない世にしてみせる」
琉兎のような少女を、これ以上生み出さないために。
昨日彼女に出会えたのは、それが水揚げ寸前だったのは、運がよかっただけだ。
琉兎の抱える借金がどれほどか、違法な遊郭がどのように彼女を縛りつけていたのか。こうして夏の宮に匿っていることで、琉兎の身に危険が迫りはしないか。
そんなことばかりが、朱夏の脳裏に浮かんでは消える。
湯殿の扉を開ける烏が、何か言いたげに朱夏を見下ろした。
「……?」
「親王さまは、ご立派です」
「烏?」
床に膝をつき、烏は真っ直ぐに朱夏を見つめてきた。
「まだお若い御身で、民のことをそれほど考えられる親王さまを、吾は尊敬申し上げます」
「烏……」
「ですが、あまり思い詰めてはなりません。親王さまには、吾がついております。どうぞ、そのお心を悩ませすぎることなく、お健やかにお過ごしいただきたいのです」
朱夏は困ったように眉を下げた。子どもとして、甘やかされていると感じた。
烏の忠誠心を疑ってはいない。だが、まだ幼いと突き放されているような気がした。




