拾参
新緑に囲まれた夏の宮に足を踏み入れると、奥からぱたぱたと軽い足音が響いてきた。
沓を履き替えていた朱夏は、ちらりと視線を上げる。下働きの者が着る単の裾をはためかせながら、琉兎が駆けてくるところだった。
背後で烏が舌打ちを漏らす。
「部屋で待てと言ったものを」
低い声に苦笑し、宥めるような声を出した。
「見知った者の誰もいない宮で、一人置いていかれて心細かったのだろう」
息を切らして走ってきた琉兎が、朱夏の胸に飛び込んだ。驚いて体勢を崩しかけた朱夏の体を、烏が後ろから支える。
「お前っ、無礼な!」
「構わない、烏。どうした?」
琉兎に問いかけると、縋りつくように朱夏の体にしがみついてきた。背中に回された細い腕から、震えが伝わってくる。
「一人にしてしまって、すまぬ。不安だったな」
そっと頭を撫でてやると、少しずつ琉兎の震えが収まってきた。
「……捨てられた、と思った」
「っ!」
消え入りそうな声で告げられた言葉に、朱夏の胸が痛んだ。出かける時には笑顔で見送ってくれていたが、無理をさせたのだろうか。
「わたし、がうまくお勤めできないから。嫌に、なったかと」
「戻ると言ったろう。ほら、約束の土産だ」
従妹を訪ねている間に、町で烏に買ってこさせた人気の菓子の包みを広げてみせた。
「お菓子!」
「ああ。町で評判の甘味処で、烏に買ってきてもらった。私の部屋で、ともに食べよう」
ようやく朱夏の胸から顔を離した琉兎が、菓子の包みと朱夏を交互に見つめた。
「一緒に?」
「そうだ。一人で留守番してくれた褒美だ」
「ご褒美」
朱夏の言葉に、琉兎も笑顔を浮かべて頷いた。
私室に入り、卓の上に菓子の包みを広げた。
「焼き餡という菓子だそうだ。薄皮で餡を包んで焼いた菓子で、これは小豆。こちらは蓬だそうだ」
「やきあん……」
「あと、このほんのり朱色のものは、野苺の餡だそうだぞ」
大人の男なら一口で三つほど食べられてしまいそうな小さな丸い菓子に、琉兎が瞳を輝かせている。
「昼餉の刻限が近いから、一つか二つにしておくといい」
琉兎の頬に残る涙の跡は、見ないふりをした。真っ赤に泣き腫らしたような瞳で、それでも土産を喜ぶ琉兎に不安を思い出させたくなかった。
従妹の元で温かな気持ちになった胸の内が、沈んでいくような気がした。
「これ、食べていいの?わたし、食べてばっかり」
「そのために買ったんだ。私と烏だけでは、食べきれない」
「わたし、何もしてないのに」
「うん?」
落ち込んだような声に朱夏は首を傾げた。どういう意味か。
「わたし、お勤め、うまくできてない。なのに、ご褒美?」
「その。気になっていたのだが、其方の言う『お勤め』とは……」
「親王さま」
朱夏の言葉に被せるように、烏が声を掛けた。朱夏の言葉を遮ることは珍しい。
「烏?」
「後ほど、ご報告がございます。それまでは、その娘の言葉はお気になさいませんよう。
琉兎、親王さまのお心遣いを無駄にするな。さっさと選んで食べろ」
「……?」
気にはなったが、しばらく考えた後で嬉しそうに菓子を選び始めた琉兎を見て、朱夏はひとまず飲み込んだ。
焼き餡を口いっぱいに頬張る琉兎を微笑ましく見つめ、朱夏は午後からの手習いの支度を烏に任せた。
今日は文を認める作法についてと、四季の国の地理について習う予定だった。烏は主君の様子から目を離さないようにしながら、教本を揃えた。
「そう言えば、あれから莉羅はどうしたろう」
朝餉の給仕は別の侍女が行った。禁域の林の出口で会った後、姿を見ていなかった。
「侍女長どのが、きちんと言い聞かせると言っておいででしたよ」
「侍女長が?」
「気に入らずとも、親王さまがお連れになった相手に対して、無礼を働くのは侍女として許しがたいと」
威厳のある侍女長に叱られる莉羅の姿が思い浮かんで、朱夏は苦笑した。物言いはきついが、莉羅は仕事はきちんとする娘だ。
「あまり、きつく叱責されないといいのだが」
「親王さまは、お優しすぎます」
ぼやくように言った烏は、五つ目の焼き餡を口に運ぶ琉兎を呆れたように見つめた。
甘やかして、つけ上がる娘でなければよいのだが、と。




