佰捌拾参
夏煌丸の三度目の出航を見送った四季の国では、三月が経ち秋の入口に入っていた。
帝の唯一の側室である舎利の懐妊が民に公表され、町のいたるところで慶事に湧く様子が見られる。
安定期と呼ばれる時期に入ってもなお、朱夏の心配が尽きず、膨れ始めた腹がさらに大きくなってきた頃の発表であった。過保護と笑われようとも、重臣たちが眈々と朱夏の外戚の座に就くことを狙っており、身重の舎利の身が案じられてならなかった。
奥宮の内庭で、芒を眺めながら朱夏は舎利と茶の時間を過ごしていた。
薬師に勧められた通り、近頃はゆっくりと内庭を散策するのが舎利の日課であった。久々に執務の休みを取れた朱夏が、その散策につき合った後の二人での茶会であった。
「それで、浪嶺がその時とても慌てていて」
口元を上品に手で隠し、舎利がころころと笑い声を立てる。
悪阻の時期には食事を受けつけず、果実や水物ばかりを口にしていた舎利ではあるが、近頃では食事量が増えてきていた。細かった体も少しふくよかになり、子を腹に宿した自信のようなものが窺える。
「あんなに顔色を変えた浪嶺は初めて見ましたわ」
くすくすと笑いながら、傍らに控える浪嶺に視線を向ける舎利は、肌艶もよいようだった。
「お言葉ですが、お方さま。尊き御身がお怪我でもなさっては、わたくしの首が飛びます」
生真面目に答える浪嶺の表情に、舎利がさらに笑う。
「わたくしだって、そう簡単に転んだりはしなくてよ」
「だが、浪嶺の言うことも正しいぞ。其方の身に何かあっては、私は心配で己が不甲斐なくて、眠れぬ夜を過ごすだろう」
近頃ようやく国内で流通し始めた、西領特産の薬草茶を口にしながら朱夏が浪嶺を擁護する。
「ま。朱夏さままで、そんな意地悪を仰せですの?」
わざとらしく目を丸くした舎利の頬に、朱夏はそっと手を伸ばす。
「朱夏さま?」
「其方がいなくなるのは、耐えられない」
「……っ」
朱夏の言葉に息を呑んだ舎利が、視線を彷徨わせる。
二人の甘くなった空気を察したのか、浪嶺が少し距離を取って会話の聞こえない場所まで下がった。
「しゅ、朱夏さま……」
「其方のことも、腹の子のことも、私には等しく大事な存在だ。無茶を致すな」
頬を染め、舎利は恥じらうように目を伏せた。
「あたし……こんなに幸せでいいのかねぇ」
「うん?」
舎利の言葉に朱夏は優しく首を傾げた。
「好いた男に愛されて大切にされて。こうして御子まで授かって。あたしには見せないようにしてるんだろうけど、この奥宮でも厳重に護ってくださってるんでしょう?」
「……」
「義父上さまからも、大層なお祝いのお品をいただいて。あぁ、輝山の大臣からも」
頬に置かれた朱夏の手に手を重ね、舎利はほうっと息を吐いた。
「幸せすぎて、怖いくらい」
ふふっと笑った舎利の肩を、朱夏はそっと引き寄せた。
「少し前までは、不安で不安でどうしようもなくて。何ていうか、落ち着かなくて眠れない夜もあったんだけど」
「そういう時期だったのだろう。薬師が言っていたろう?」
「それが今では、こうして貴方さまとお茶を飲むだけで、心が凪いでいくっていうか。けど、こんな幸せ、きっといつまでも続かない」
舎利の肩に置いた手で、朱夏はそっとその肩を撫でた。
「いずれ、ご正室さまが戻ってこられる。その時に、今あたしのお腹で育ってる御子がどうなるのか。ご正室さまにどう思われるのか。それが不安なんだ」
「私の正室に……煌に会うのが怖いか?」
朱夏の静かな問いに、少し考えて舎利は首を振った。
「ご正室さまは、由緒正しい帝一族の姫君。あたしのことなんか、端から眼中にないだろう。けど、ご夫君である朱夏さまの血を引いた御子のことは、厭わしく思われるかもしれない」
「……」
「もしご正室さまに睨まれたら。そして、ご正室さまを悲しませないように周りの方々が動かれたら。あたしは排除されてしまうかもしれない」
胸の内の不安を隠さないようにと、再三朱夏が頼んだためか、近頃の舎利はこうして正直に話してくれるようになっていた。
「もしかしたら、ご正室さまの派閥みたいなものと、闘わなくちゃならないのかもしれない。けど、朱夏さまの愛だけに縋ってるあたしじゃあ、きっと敵わない」
「派閥争いか。そんなくだらないことを許すつもりはないがな」
政争の醜さも残酷さも知っている朱夏にしてみれば、血なまぐさい騒動に舎利や煌姫を巻き込むつもりはなかった。
「そうは言っても。朱夏さまが守ってくださるって思っていても、やっぱり怖いものは怖いさ」
「そうだな」
「いつか朱夏さまの愛があたしから離れてしまったら。ここを追い出されてしまったら。そんなことを考えてしまう日は、どうしたってあるのさ」
舎利の顎に指をかけ、朱夏は自分の方に瞳を向けさせた。
「……朱夏さま?」
「私は、政争で琉兎を亡くした」
「……っ」
瞳を見開いた舎利に構わず、朱夏は続ける。
「そして、政争によって妻を攫われた」
「……」
「いまだ権力に固執する重臣どもはいずれ何とかするが。派閥争いなど、私の治世においては許さない」
優しく舎利の唇を奪い、朱夏は口角を上げてみせた。
「今のように、不安はきちんと伝えてくれると嬉しい」
「朱夏、さま」
「其方の憂いを取り除くのは、私の役目だ。そして、私に不満を伝えた後は、其方は体を労ることだけを考えてくれ」
「……はい」
潤む瞳に吸い込まれるように、朱夏は再び舎利に口づけた。




