佰捌拾壱
かたり、と朱夏が卓に手を置く音が響いた――。
親雪の方へと身を乗り出しすぎて、体勢を崩したのである。
「あ……」
我に返った朱夏が、親雪の瞳を見つめた。
「それで……それは、その、姫とは」
声が震えないように必死な朱夏に気づかない振りをし、親雪は頷いた。
「私ども男が後宮に立ち入ることは勿論できません。それに、ご機嫌を損ねたらしい国王陛下は、謁見を終わらせて後宮に戻ってしまわれました」
「……そう、か」
「ですが、その後宰相どのから陛下の発言について謝罪を受けました」
長椅子に座り直し、朱夏は親雪に続きを促す。
「長い旅路を進んできた我らを歓迎すると、その夜宴を開いていただきました」
「……」
「そこで、最近重臣の地位に就いたという方をお見かけ致しました」
親雪の言葉に朱夏の動きが止まった。
最近、亜伊夜の国で重臣になった者――。
「艶やかな黒髪を一つに束ねた灰色の瞳の方でした。ひょろりと背が高く、忙しなく周囲に視線を走らせている印象でございました」
ごくり、と朱夏は唾を飲み込んだ。額に汗が浮かぶ。
「今上さまからお聞きしていた容姿と一致する、恐らくあの方であろうと見当をつけた我らは、警戒されないように近づいてみました」
「……それで」
「随分乱暴な飲み方をされておられ、私どもが近づいたことにも気づかれておりませんでした。直接言葉を交わすのは、まだ危険かもしれないと善有どのが仰せになって」
朱夏の震える唇から視線を逸らして、親雪が続けた。
「会話が聞こえる距離にこっそり立ってみました」
もう一口薬草茶を飲んだ親雪が、再び朱夏を見つめる。
「酷く荒れておいででした」
「荒れていた?」
「『こんなはずではなかった。私は陛下に、妻を差し出したわけではない』と。随分声を荒げて、隣に座る文官らしきお相手に喚いておいででした」
「妻、を……?」
朱夏の呟きに頷き、親雪が口を開く。
「隣の方からま……まどぉる?と呼ばれておいででした。異国の響きのお名前でしたが、あのご容姿は四季の国の人間です」
きっぱりと言い切った親雪が口を閉ざした。じっと、朱夏の反応を待っている。
額に手を当て、心を落ち着けようと朱夏も薬草茶を口に含んだ。
ふう、と息を吐き出し親雪に視線を戻す。
「済まぬ。続けてくれ」
「はい。宰相どのの仰せによりますと、国王陛下は近頃ご執心の女人がおいでとのことで。どうやら、それがそのまど、まどぉるどのの細君ではないかと」
「臣下の妻を、王が奪ったということか?」
驚きに目を瞠った朱夏に、親雪が自信なさげに頷いた。
「亜伊夜の国では、よくあることのようです」
「よくあるのか!?」
「出世のために、細君や娘御を王の後宮に入れるそうです。その女人が王の御子を身籠れば、栄華は約束されるとのことでした」
四季の国との風習の違いを、理解していたつもりでいた。
それでもこうして、直接現地を見た者の言葉は重みが違う。想像以上の文化の違いに、朱夏は言葉が見つからなかった。
「そして、さらに酒の進んだまどぉるどのが、こう零されました。『私は、春香にお手をつけた陛下を恨む』と」
「っ!」
「ずっとあちらの言葉で会話をなさっておいででしたが、その一言は四季の国の言葉でございました」
長椅子の背凭れに身を預け、朱夏はきつく目を閉じた。
親雪たちが見たという「まどぉる」なる人物が、四季の国から逃亡した妙葵であることは確定であろう。
妻である春香を新たに主君と定めた亜伊夜の国の王に寝取られ、深酒して同僚に当たり散らすなど、朱夏の中の妙葵の印象とは異なる。
一体、妙葵は何がしたかったのか。
「あの呟きをお聞きになって、善有どのが私に帰国を指示なさいました」
親雪の言葉に目を開き、朱夏は姿勢を正した。
「善有が?」
「恐らく、細君の御名をご存知だったのでしょう。一刻も早く、書状などではなく直接私の言葉で、今上さまに奏上すべきだと仰せになって」
親雪の言葉に朱夏は再び考え込む。妙葵の妻が、朱夏から下賜された春香であることは、当時宮中で知られている話であった。その妻を深く愛しているらしいとの噂話も、仙螺の騒動の際に下働きの者たちから聞いたのである。
親雪に視線を戻した。
「善有と築岳は、亜伊夜の国に留まっているのか?」
「はい。後宮の様子を探れないかと、あれこれ手を尽くすと。それに、私が出立する直前に耳にした噂もございました」
「噂?」
首を傾げた朱夏に、親雪はしっかりと頷いた。
「まどぉるどのが重臣の座を得るために、海の向こうから連れてきた高貴な姫君がいるらしい。だが、その姫君を守るまどぉるどのの細君に、陛下はお心を奪われた、と」
「っ!!」
今度こそ、朱夏は言葉もなく表情を凍りつかせた。




