佰漆拾捌
薬師からもっと詳しく話を聞くように浪嶺に指示し、私室から下げさせた朱夏は改めて舎利の顔を見つめた。
先ほどから、困ったように微笑むだけの舎利に、朱夏の頭が冷静さを取り戻す。
「……舎利、其方はいつも、私に喜びをくれる。だが、何か心配事があるのなら言ってくれ」
「あたしは、何も……」
「舎利」
細い体を抱き寄せかけて、薬師の言葉を思い出す。舎利の手を握る指先にほんの少し力を込めて、朱夏は口を開いた。
「前にも言った。胸の内を、不安を、隠さないでくれ」
「朱夏さま……」
「何を考えている?」
重ねて問われた舎利の瞳が揺れる。朱夏の顔を見つめ、片方の手で己の腹部をさすった。
「……あたしなんかが、その……朱夏さまの御子を授かるなんて、その……ご正室さまにも迦陵姐さんにも、申し訳なくて」
その言葉に朱夏は目を見開いた。思わず、握っている舎利の手を己の口元に引き寄せる。
「朱夏さま?」
震える指先に口づけ、朱夏は眉を下げた。
「煌からも琉兎からも、責められるべきは私であって其方ではない。其方は私の望みに応じ、こうして側にいてくれるだけだ」
「朱夏、さま……」
「其方の身の内には、私との子が宿っているのだ。喜んではくれぬか?」
「……」
舎利が撫でる腹の上に、朱夏も手を重ねた。
「責めは私が負う。其方はただ、体を厭い健やかに子を産むことだけを考えてくれ」
「……」
「私との子を授かったことを、ともに喜んでくれ。……頼む」
ぽろり、と舎利の瞳から涙が零れた。はっとしたように袖で拭おうとする舎利の頬を、朱夏の指が撫でる。
「こするな。赤くなるぞ」
「朱夏さまは、やっぱりずるいお人ですねぇ」
泣き笑いのような表情を浮かべて、舎利が諦めたように呟いた。
「ずるい私でいることで、其方が笑ってくれるなら、いくらでもずるい男になろう」
「ふふっ。何ですか、それ」
「舎利」
撫でていた頬に手を添え、朱夏は舎利の瞳を己に向けさせた。
「はい?」
「私の子を、宿してくれてありがとう」
「……っ」
「私を父にしてくれて、礼を言うぞ」
後から後から溢れる涙をそのままに、舎利は朱夏の腕の中に飛び込んだ。
奥宮から齎された速報に、ぽろり、と輝山の大臣は手にしていた筆を落とした。
疲労の滲む朱夏を早々に奥宮へと追いやり、残務を片づけていた最中に届いた報せに、年甲斐もなく飛び跳ねかけて腰を捻った。
「あ痛たた……」
腰をさすりながら椅子に座り直し、報せを届けた朱夏の隠密を労う。
「ご苦労であった。今上さまと第二室さまのご様子はどうか?」
「吾らは男であるため奥宮の内までは入れませぬが、出てきた侍女どののお話によりますと落ち着かれたようでございます」
「うむうむ。今上さまにとっては初めての御子となる。喜びもひとしおであろう」
机に飛び散った墨を拭きながら、輝山の大臣は考えを纏める。
帝の初めての御子の誕生は、大々的に祝われるべき慶事ではある。だが、公表する時機を見誤ってはならない。
第二室の悪阻が落ち着くまで、重臣たちにも伏せる必要があるだろう。汐之が戻り次第、相談して決めなくてはならなかった。
「新たに入った侍女の思惑が、今一つ掴めぬのが不安であるか」
零された呟きに反応する者はいない。隠密は影のように潜んで立ち、次の指示を待つだけだ。
「湊刃の大臣は明日には戻る。それまで、今上さまには奥宮にいていただくか」
ちらり、と控える隠密に目を向けた。
「其方に、再び奥宮への遣いを頼みたい」
「今上さまの御ためでしたなら、何なりと」
「少し待て。今文を認める」
新たに紙を取り出し、輝山の大臣は猛然と筆を走らせ始めた。
第二室さまのご懐妊、誠におめでたい。
寿ぎの言葉を贈りたいが、時機を見極めるまで待っていただきたい。
湊刃の大臣が戻るまで、朱夏は奥宮に留まるように。
奥宮の外に、第二室さまのご懐妊を決して漏らさぬように、侍女たちにもきつく言い含めていただきたい。
ひとまず至急の要件を書き連ね、封をした文を輝山の大臣は隠密に手渡した。
「これを、必ず今上さまに直接手渡せ」
「吾が奥宮の黒門に今上さまを呼びつけるなど、不敬な真似をしてもよいものでしょうか」
「私の名を出せばよい。今上さまに手渡しするように、きつく言いつかっているとな」
「御意」
深く拝礼した隠密が、音もなく執務室を出ていった。
残された輝山の大臣は息を吐き、曾孫が誕生するのだとようやく気づいて頬を緩めた。




