佰漆拾漆
執務を終えた夕刻、朱夏は烏とともに奥宮までの回廊を歩いていた。
汐之が大港より戻るのは早くとも明日の昼以降である。舎利の体調が気にかかり集中しきれない朱夏を、輝山の大臣が早々に執務室から追い出したのであった。
「……私は、情けない帝だな」
零された呟きに烏が目を剥いた。帝となってから、心許せる者の前でしか朱夏は弱音を漏らさないが、できるだけ隠そうとしていることを烏は理解していた。
気遣わしげに声を掛ける。
「あまり、御身をお責めになってはなりません」
「そうは言ってもな」
国のため民のために、身を粉にして働くのが帝の役割だと朱夏は弁えていた。室の体調に心を揺らして執務を疎かにするなど、朱夏の矜持が許さないのだ。
舎利にも気を遣わせることだろう。父のように、もっと毅然と心強く立っていたかった。
黒門を抜けて奥宮の舎利の私室へと向かう。
扉前に立つ警護の武官に訪れを告げると、静かに扉が開かれた。ふわりと香る香に朱夏の心が穏やかになる。
「舎利、具合はどうだ?」
室内には手配した薬師と浪嶺、それと敷布の交換に訪れた下女だけがいた。
寝台に身を起こし、枕を背に当てた舎利が眉を下げて微笑んでいる。
「舎利?」
足早に歩み寄り、寝台の脇の椅子に腰を下ろしながら薬師を見上げた。
「第二室の容態はどうか?」
「世を遍く照らす今上帝さまに、お慶びを申し上げます」
「何?」
薬師の言葉に朱夏は首を傾げた。
「第二室さまは、ご懐妊でございます」
青灰色の瞳が極限まで見開かれる。ぽかんと口も開けたまま、舎利と薬師に忙しなく視線を向ける朱夏に、薬師が笑みを深くした。
「近頃のご不調は、御子を授かったことによる悪阻と呼ばれる症状でございました」
「……あ、私に、子が……?」
「今上帝さま、第二室さま。誠におめでとう存じます」
「おめでとう存じます」
薬師に続いて浪嶺からも寿がれ、朱夏の頬がじわじわと熱を持った。
勢いよく舎利に顔を向けると、困ったように微笑む瞳とぶつかる。
「舎利?」
「……望外の喜びではございますが……その、よろしいのでしょうか」
「ま、待て。まずは薬師に、気をつけるべきことなど聞かねばな」
動揺に何を口走っているのか己でもわからなくなった朱夏だが、掛布の上に置かれた舎利の手をそっと握った。
「えぇっと……まず、まずは……体を温めればよいのだろうか。いや、滋養のあるものを食べさせるべきか。あっ、産着、産着はどうすれば……」
「落ち着かれませ、今上帝さま。まだ身籠られて二月といったところでございます。お生まれになるのは年が明けてからになります」
薬師の穏やかな声に、朱夏ははっとして頷く。
「そ、そうだな。初めてのことに我を忘れた。これから気をつけることは何がある?」
「まずは先ほど仰せになったように、お体を温めることが大切です。これより二月ほどはご体調も落ち着かれないでしょう」
丁寧に説明する薬師の言葉に、朱夏は舎利の手を握ったまま耳を傾けた。
「人によって差異がございますが。食事を受けつけない。食べても吐いてしまう。常に眠くなる。などといった症状が出ることがございます」
「食事も……」
「味のお好みが変わることもございます。様々にお試しになり、第二室さまがお口にできる果物など召し上がっていただくのがよいかと」
「あ、ああ。……な、浪嶺、きちんと書き留めておくように」
薬師の隣に控えて立つ浪嶺に言いつけ、朱夏はさらに薬師の話を聞く。
「第二室さまでございますから、そのような可能性はありませんでしょうが。重たいものを持つ、激しい運動をなさる、などといったことは厳禁でございます」
「寝台の上で、安静にしていればよいのだな」
深く頷く朱夏に薬師の説明は続く。
「ですが、動かなすぎるのもよくありません。悪阻と呼ばれる症状が落ち着かれ、安定した時期に入りましたなら、庭の散策などといった軽い運動は必要でございます」
「腹の子に障るのではないか?」
心配そうに尋ねる朱夏に、薬師が慈愛深い笑みを向けた。
「じっとしているだけでは、お産に耐えられるだけの体力がつきません。適度にお体を動かすことも必要でございます」
「そうか。そういうものか」
「それと、今上帝さま」
真剣な声音に変わった薬師に、朱夏は首を傾げる。
「何だ?」
「第二室さまのご体調が安定なさるまで、閨はお控えくださいませ」
薬師の言葉の意味を徐々に理解し、朱夏は真っ赤になって叫んだ。
「あっ、当たり前だ……!」




