佰漆拾伍
執務の合間に藤の離宮を訪れた朱夏は、居室の椅子に座る父の様子に目を瞠った。
再び夏煌丸が大港を出航してじきに五月。二十一歳になった朱夏は、外交官たちとのやり取りが思うようにいかずに苛立っていた。
「父上、寝台におられなくてよろしいのですか」
「……しゅ、か……」
横から薬師に支えられてはいるが、自身の力で座っているらしい夏勢院の姿に朱夏は駆け寄る。
震えながら伸ばされた手に己の手を重ね、朱夏は父の傍らに立つ薬師に視線を向けた。
「随分ご回復されたのだな」
「はい。院さまの驚異的な精神力に驚くばかりでございます」
「お言葉の方はどうだ」
最後に会った時、夏勢院は思うように話せず朱夏ともあまり会話を交わすことができなかった。
「いまだ舌に麻痺が残っておられますが、根気よく煎じ薬を朝晩飲まれ、舌を動かす訓練にも励まれました。歩かれることはままなりませぬが、ゆっくりとでしたら以前よりお話できるかと思います」
「そうか。其方ら薬師も、労わねばならぬな。父上のご回復に努めてくれたこと、礼を言う」
朱夏の言葉に目を見開き、筆頭薬師はぶんぶんと頭を振った。
「恐れ多いことでございます。私どもは隣室に控えておりますので、ごゆるりとお話くださいませ」
頭を下げて退出した薬師を見送って、朱夏は父の隣に運ばせた椅子に腰掛けた。己と同じ、青灰色の瞳を見つめる。
「父上。なかなか訪えず申し訳ございませぬ。ようやく少し時間が空きましたので、お顔を見に参りました」
朱夏の言葉に夏勢院が小さく小さく頷いた。意思を感じるその動きに、朱夏の胸に熱いものがこみ上げる。
「そく、し……つ、なか……よく?」
父の手を握ったまま、朱夏は頷いた。
「しっかり奥宮を差配し、私にもよく仕えてくれています。いずれお目にかかる時が来るやもしれませぬ」
「……て、る……どう……?」
「必ず取り戻します」
きっぱりと言い切った朱夏に、不自由な動きで夏勢院は目を見開く。目尻を下げて微笑んだように見えるのは、朱夏の願望であろうか。
「今は、夏煌丸の帰還を待つもどかしい時期ですが。私が両大臣とともに選んだ優秀な外交官に任せています。きっと朗報を持ち帰るでしょう」
「がい……こ、うか、ん……どこ、の」
「そう言えば、ご報告していませんでしたね。一人は覇杵の善有。もう一人は秀聯の親雪。そして最後に、北領の商家から築岳。この三名が、現在大陸へ渡っております」
朱夏の説明に、夏勢院が頷こうとした。僅かに震えた唇が、再び言葉を紡ごうと動く。
「……あい、や……むず、かし……くに」
その言葉に朱夏は瞳を見開いた。
「父上は、かの国と交流なさったことがおありですか」
「な、い。……たび、ひと……きぬ、じ……みた」
「ああ。我が国に旅してきた者に会ったことがおありなのですね」
納得したように頷いて、朱夏は首を傾げる。
「絹地、ですか?」
朱夏の問いに、夏勢院の瞳が迷ったように揺れる。
「父上?」
「は……だ、かく、さ……ぬ」
眉を下げた朱夏に夏勢院が続けようとする。
「……ぅ、うう……」
思ったように言葉を紡げず、夏勢院は苛立ったように唸った。宥めるために朱夏は父の手の甲を撫でる。
「焦ることはありません。かの毒からここまでご回復なさったのが、奇跡に近いのです。時はまだまだあります。ごゆるりと養生なさればよろしいのです」
朱夏の瞳をじっと見つめ、夏勢院が頷いたように見えた。
「またご報告に参ります。この後母上のお顔を見て本宮へ戻りますが、次は何か見舞いの品を持参しましょう。何がよろしいですか」
しばらく考え込み、夏勢院が口を開く。
「……か、りょ……どうし……?」
「……父上」
「そな、た……めと……たか?」
朱夏はぶんぶんと頭を振った。
「私が、父上の細君を娶るはずがありませんでしょう?第六室どのならば、奥宮の解体とともに市井へ戻られました」
父の瞳に驚愕の色が乗ったのに気づいたが、朱夏は口からついて出た嘘を取り下げることはできなかった。
「他のご側室は生家へ戻られました。迦陵どのには生家がございませんでしたから、市井に屋敷を賜りそこで余生を送られるはずです」
言い募る内に、それが真実のような錯覚を朱夏は起こした。
本当にそうであったなら、どれだけよかったことだろうか。
すっと立ち上がり、朱夏は父に辞去の挨拶を述べた。
「また参ります。次は交易で得た珍しい菓子などお持ち致しますよ」
父の返事を待たず、朱夏は夏勢院の居室を後にした。




