佰漆拾参
奥宮の舎利の私室で、朱夏はゆったりとした夜着に身を包んで長椅子に横たわった。
湯殿で汗を流しさっぱりとした心持ちで、大港との往復で疲れた心身が舎利の香に癒される。
「もう、お休みになりますか?」
軽やかな舎利の声に、微睡みかけていた朱夏は瞳を開けた。
「……いや。少し酒を飲みたい」
「ご用意させますわ」
舎利の目配せを受けて、浪嶺が私室の扉を開けて護衛官に何事か囁いた。厨房から酒を運ばせるのだろう。
「お体を、解しますか?」
「解す?其方が?」
ふふっと笑い、舎利が朱夏の足元に浅く腰掛けた。
「これでも、上手なんですのよ。義父上さまにも褒めていただきました」
「そうか。では頼もうか……ああ、いや。眠ってしまうかもしれないな」
勿体ない、と呟いて朱夏は身を起こした。
長椅子に並んで座り、朱夏は舎利に大港での景色を語って聞かせることにした。
「其方は、海を見たことがあるか?」
運ばれてきた盃に酒を注ぎながら、舎利は首を横に振った。
「いいえ。わたくしは都を出たことがありませんの。海というのは、とても広いものなのでしょう?」
盃に口をつけ、朱夏は傍らに控える浪嶺に視線を向けた。
「其方はどうだ?」
問われた浪嶺は首を傾げ、ほんのりと口元に笑みを浮かべた。
「わたくしは、湊刃の分家に生まれ、右の大臣の乳母を務める母とともに大港に訪れたこともございます。あの遥かに続く海を見たことは、幾度かございます」
その言葉に舎利が目を丸くした。
「素敵ね。海というのは、塩っ辛いお水だと聞いたことがあるけれど、本当なの?」
「そうですね。体に纏わりつく潮風も、気持ちがよいものですが乾くと全身がべたついて大変です」
「気持ちよいのに、べたつくの?不思議なものね」
朱夏の盃に酒のお代わりを注ぎ、舎利が微笑む。
「今上さまも、海に出たいとお考え?」
悪戯っぽく尋ねられ、朱夏は小さく笑った。
「輝山の大臣に叱られる。海上に出ることは許さぬとな。港から眺めるだけだな」
「まあ」
くすくすと笑う舎利の髪を撫で、朱夏は浪嶺に退出を命じた。
ふう、と息を吐き、三杯目の盃を空にして朱夏は立ち上がった。
「酔ったんですか?」
「……うん。思いの外体が疲れていたのだろうな」
「では、お褥に……」
朱夏の体を支えようとした舎利の手を引き、朱夏はともに寝台に転がった。
「朱夏さまっ?」
寝台の上で舎利の体を抱き込みながら、朱夏はぼんやりと呟く。
「そう言えば、琉兎が酒を飲むところを見たことはなかったな」
幾度か酒宴の席で顔を合わせたことはあったが、いつも早めに退席していた。
酔った頭で朧気に、仙螺の蓮黄に媚薬を盛られた夜を思い返したせいだ。そう、朱夏は自分に言い訳する。
「……迦陵姐さんは、宴の席がお嫌いだったから」
「そうなのか?」
「まったく。二人きりの寝所で他の女の名を出すだなんて、無粋だこと」
そう言う舎利の声に咎める響きがなかったことに安堵し、朱夏はますます彼女の体を抱きしめた。
「……済まぬ」
「嫌だねぇ。謝らなくったっていいんだ。こうやって、貴方さまと迦陵姐さんの話をできるのは、二人でいる時しかないんだから。でも、あたしじゃなかったら、許してもらえませんよ」
からかうような声に朱夏も笑う。
「側室は其方しか迎えぬ。他の女と寝所に籠ることはない」
朱夏の腕の中で身を捩り、舎利の瞳が朱夏に向けられた。そっと頬を撫でる感触に、朱夏は目を閉じる。
「其方は琉兎を姐さんと呼ぶが、私は琉兎の年も知らぬままであったな」
零された言葉に息を呑み、舎利は視線を彷徨わせた。
「……舎利?」
「貴方さまより、幾らかは年上でございましたよ」
その答えに朱夏は目を剥いた。
疲れも酔いも忘れて身を起こしそうになる。
「まさか……私より、てっきり年下だと……」
「どうしてそうお思いに?」
尋ねられ、朱夏の脳裏に初めて出会った裏路地での琉兎の姿が蘇った。
「随分……小柄で、やせ細っていて……私と同じか少し年若だろうと」
朱夏の答えに舎利は眉を下げて微笑む。
「舎利?」
「今の楼主は違いますけどね。先代までは、何ていうか……少しでも楼の花たちを幼く見せようとしていたから」
「幼く見せる?」
朱夏の背に手を回して、優しく撫でながら舎利が続ける。
「国が認めた遊郭では働けない幼い女たち。それを買いに来るのは、その趣味をひた隠しにしているようなお大尽だったからねぇ」
「水揚げ前に、その、客を取らされていたのか?」
「勿論、最後まで体を捧げるなんてことはなかったけど。まあ、ちょっと肌を見せたり、体を触らせたり。そのくらいはさせてましたね」
眉間に皺を寄せた朱夏がきつく舎利を抱きしめた。
「だから。実際の年齢よりも幼く見えるように、食事を抜いたり、与えても量を減らしたりしてたんだ」
「そんな……」
「貴方さまが初めて迦陵姐さんに出会った頃は、楼主はまだ先代のじじい……爺さんだったでしょう?小柄だったのも当然だよ」
途中で言い直したことには何も言わず、朱夏は低く唸った。
「その、先代の凛慈はどうしたのだ?」
「どうって?」
「私が次に櫻花楼の楼主だと名乗られたのは、今の凛慈であったからな。代替わりした理由を聞いたことがなかったと思ってな」
「……老衰で死んだんですよ」
あっさりとした答えに、朱夏はほうっと息を漏らした。
「そうか」
ぽつりと呟き、そう言えば、と朱夏はさらに尋ねる。
「其方は、私より年若であるな?」
「……」
「舎利?」
小さく息を吐き、舎利は躊躇いがちに口を開いた。
「あたしが水揚げしたのは十くらいの頃さ。そうしてお客を取り続けて、稼げるようになって……」
「うん」
「朱夏さまに初めてお会いしたのは、それから五年くらいしてからかねぇ」
それでは、舎利は現在十五くらいの年だということになる。親のいない子どもは、貴族のように正確に年齢がわかるわけではない。
ぼんやりと考える朱夏に、舎利が甘えるような声を出す。
「ねえ、朱夏さま」
「うん?」
朱夏の背に回された舎利の腕が、ぎゅっと朱夏にしがみついた。
「無粋なお話はこのくらいにして。そろそろあたしを愛してくれてもいいんじゃないかい?」
耳元で囁かれた言葉に目を丸くし、朱夏は苦笑しながら舎利の夜着の帯紐を解いていった。




